河津原村(読み)かわづはらむら

日本歴史地名大系 「河津原村」の解説

河津原村
かわづはらむら

[現在地名]佐伯町河津原

鷹巣たかのす山の東南に位置する。谷間に開けた小平地を東西に石見津和野路が通り、その街道沿いに主として集落が展開する。中世友田ともた郷に属していた。天正九年(一五八一)一二月六日付の安芸国佐西郡友田郷年中陣夫定夫日数日記(厳島野坂文書)に「一百廿九日、従河津原名之」とある。

慶長元年(一五九六)八月一日付の河津原惣社八幡宮氏子庭割(「佐伯町誌」所収)に「友田村ノ内河津原組、(中略)家数都合三拾弐軒」とみえる。近世の河津原村の成立について友田村の「国郡志下調書出帳」は、慶長六年の検地により友田村から分村したと記すが、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳には村名がみえず、寛文四年(一六六四)とする説(佐伯町郷土史年表)が妥当である。


河津原村
こうづわらむら

[現在地名]智頭町河津原

東・西の宇塚うづか村の西方しやく山・那岐なぎ山に囲まれた山間にあり、宇塚谷の奥に集落が発達する。当村より物見ものみ峠を越えて美作国東北条とうほくじよう物見(現岡山県加茂町)へ至る道や北方の二反田にたんだより東に越えて新見にいのみ谷の口宇波くちうなみ村へ通じる山道がある(因幡志)。拝領高は二三石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高三六石余、毛付高五四石余、本免五ツ二分、同年の物成高二五石余、ほかに藪役銀一八匁・山役銀二匁五分が課されていた。「因幡志」では家数一三。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によれば生高五一石余、竈数一二。当村は藩に御用材木を納入していたが、享保一〇年(一七二五)藩の御用材木を差出すことができない旨を願出、御用材木割符から免除され、同時に渡世用材木の伐出しも禁止されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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