中山城跡(読み)なかやまじようあと

日本歴史地名大系 「中山城跡」の解説

中山城跡
なかやまじようあと

[現在地名]上山中山

伊達氏領と最上氏領の領境にあった中世城館跡。伊達氏の最上氏に対する城砦で、標高三四五メートル、比高一〇〇メートルの天守てんしゆ山に築かれた連郭式の山城三方を自然の渓谷に囲まれ、山頂は平坦地で一角に高さ三メートル、縦一〇メートル、横一二メートルの石組みの天守台が残る。大手に前森まえもり丘陵が横たわり、これを囲んで二の丸・三の丸があり、その中に侍屋敷・奉公人屋敷・馬場があったといわれる。山腹には数段の塹壕が掘られ、東方物見ものみ山の頂上に物見櫓が設けられた。永禄―元亀(一五五八―七三)の頃、伊達稙宗家臣中山弥太郎が築城し城主になったと伝える。


中山城跡
なかやまじようあと

[現在地名]村岡町福岡 中井

福岡ふくおか集落の南西、北流する湯舟ゆぶね(大野川)大谷おおたに川に挟まれた舌状丘陵の標高四三八メートルに所在する。城域は南北約三〇〇メートル・東西約二五メートルで、山麓との比高は約一〇〇メートル。縄張りは東西約一五メートル・南北約六一メートルの細長い主郭の北側に一郭、南側に二郭を直線的に配置し、四本の堀切で各曲輪を区画している。主郭を含む三郭には堀切側に低い土塁が構築され、一部に竪堀もみられる。この縄張りは南北朝期から室町期の様相を呈しており、戦国期の改修はわずかである。


中山城跡
なかやまじようあと

[現在地名]高山村中山 城内

西を五領沢ごりようざわ川、東を西沢にしざわ川に挟まれた名久田なくた川北岸、長野原ながのはら(現長野原町)から沼田へ抜ける道の北に立地する平城。東を南流する小河川に面する一〇メートルほどの段丘上に方形の本丸(東西一三〇メートル・南北一二〇メートル)があり、北・西・南を土塁と堀で囲まれ、西土塁際に城明神が置かれている。西に短冊型の二ノ丸、北・南に同様な郭が帯郭のように配置され、南は三ノ丸(東西二三〇メートル・南北一七〇メートル)、捨郭(東西三〇〇メートル・南北三三〇メートル)と並び、北は帯郭と北郭がある。


中山城跡
なかやまじようあと

[現在地名]金山町大塩 要害

大塩おおしおの北七町、通称根小屋ねごやとよぶ要害ようがい(五六五メートル)の山頂部に構築された複郭式の山城。要害山は三方を只見ただみ川支流のせきいり沢・滝沢たきざわ川・新町しんまち沢に囲まれた独立峰で、南部は大塩の立地する平原が開け、只見川の大きな流れが外堀の役目となる天険の要害である。要害山の中腹は豊かな水と耕作地に恵まれ、根小屋集落と推定される。ここから直上の本丸跡まで急勾配の追手道が続く。本丸の広さは「会津鑑」「会津古塁記」「新編会津風土記」ともに東西一町一二間、南北一町二一間とあり、山内氏の持城の城郭中最大の規模を有している。


中山城跡
なかやまじようあと

[現在地名]豊松村有木 日野郷

日野ひの山の西麓にある。中世当地に勢力を有し、備後吉備津きびつ(現芦品郡新市町)の神職も兼ねた有木氏が居城した。城とよばれるが実態は居館に近い。土居形式で北と東に空堀をめぐらし、土居の跡もはっきりと残っている。

有木氏について「福山志料」は「吉備津祠官ノ長トナリ連綿繁昌シ三国分祭ノ時、シタカヒ来ル後、宮政信ニ従ヒ戦功アリテ神石ノ郡、豊松庄ノ内ヲ采食ス、今ノ有木村ナリ」と記す。これによれば南北朝初期から当地と有木氏の関係が生じたようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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