沼津・沼津郷(読み)ぬまづ・ぬまづごう

日本歴史地名大系 「沼津・沼津郷」の解説

沼津・沼津郷
ぬまづ・ぬまづごう

沼津は元来狩野かの河口右岸の川湊(津)をいった。この湊を中心とした地域が沼津郷とよばれたと考えられ、郷の中心地は狩野川に面し、妙海みようかい寺・妙覚みようかく寺・西光さいこう寺など平安―鎌倉時代創建の寺院が集まる現在の下河原しもがわら町やみや町の一帯であったと思われる。南北朝時代には千本松原せんぼんまつばらや現東間門ひがしまかど・西間門の辺りも沼津とよばれ、戦国時代には北に接し、中世東海道の宿駅であった車返くるまがえし(現在の三芳町蓮光寺付近)も沼津のうちとみられるようになり、この車返地区を含んだ沼津が近世の沼津町へと引継がれる。

「吾妻鏡」承元二年(一二〇八)閏四月二日条によると、鎌倉鶴岡八幡宮の神宮寺建立のための用材が「狩野山之奥」から「沼津海」に運び出されている。狩野山は天城あまぎ山塊のことと思われ、用材は同所から狩野川を下り、河口の川湊「沼津」で海船に積替えられ、海路鎌倉へと搬送されたのであろう。鎌倉時代、当地には伊豆半島に点在する庄園からの年貢なども集積したと推定される。ただし「沼津」は内閣文庫蔵北条本では「浴津」(「浴」の字に「河歟」との傍書がある)、吉川本では「治津」となっており、検討の余地がある。建武三年(一三三六)一〇月一五日、足利尊氏の「去二月八日御下文旨」に任せて「沼津郷 公藤右衛門尉跡」が曾我時助に交付されている(「執事高師直施行状写」座右抄)。沼津郷は鎌倉時代には得宗被官公藤(工藤)右衛門尉の所領で、尊氏はこれを伊豆の豪族狩野介の一族曾我氏に与えたことになる。またこの施行状(写)は現在確認されているもののなかで、建武二年冬に尊氏が建武新政府に離反して以降、駿河守護(石塔義房)宛に発給した最初の文書で、沼津郷が駿河国において早期に掌握するべき要地であったことがうかがえる。

応永二九年(一四二二)上杉禅秀の遺児上杉憲顕・教朝は京から関東に下り、「駿州沼津或ハ伊豆ノ三島」(喜連川判鑑)、「沼津千本松原」(鎌倉九代後記)などで戦っている。永享一〇年(一四三八)鎌倉公方足利持氏追討のため京から下った上杉持房らは、同年九月一〇日・一一日に箱根はこね山付近で持氏方の大森氏と戦い、敗れて「沼津真門」に退いている(今川記)。文明一四年(一四八二)七月一九日、幕府は葛山某の沼津郷に対する押妨を退け、同郷を曾我教助に安堵している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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