日本の城がわかる事典 「津幡城」の解説 つばたじょう【津幡城】 石川県河北郡津幡町にあった平安時代末期から戦国時代にかけての平城(ひらじろ)。津幡は古代から、加賀と能登・越中を結ぶ交通の要衝で、平維盛が1183年(寿永2)の倶利伽羅峠の戦い(砺波山の戦い、治承・寿永の乱において木曾義仲が平維盛率いる平家軍を撃破した戦い)に際して築いた砦が起源とされている。その後、1190年(建久1)に加賀井上庄の地頭津幡(都幡)隆家がこの砦跡に城館を築き居城としたといわれる。南北朝時代の1351年(観応2/正平6)、観応の擾乱において、足利尊氏に属した富樫氏春はこの城を拠点として、足利直義派の有力武将桃井直常の軍勢と戦火を交え上洛を阻止した。戦国時代に入り、1576年(天正4)から加賀一向一揆がこの城を拠点の一つとしていたが、1581年(天正9)の織田信長の加賀侵攻で、柴田勝家、佐久間盛政、長連龍の包囲攻撃を受けて落城した。その後、一時廃城となったが、前田利家が1583年(天正11)に金沢城に入城し、越中の佐々成政との対立・緊張が高まると、利家は津幡城を再築し、弟の前田秀継を入城させた。1584年(天正12)9月、成政により末森城(羽咋(はくい)郡宝達志水(ほうだつしみず)町)が攻められた際、救援に向かった利家はこの城を拠点として軍議を開き、成政勢を攻撃した。翌1585年(天正13)、秀継が木舟城(富山県高岡市)に移ると廃城となった。現在、城跡は津幡小学校の敷地になっている。校内に城址碑が建てられているが、残念ながら遺構はほとんど残っていない。津幡小学校は周辺より5mほど高い台地のうえにあるが、この台地が津幡城の名残である。JR七尾線本津幡駅から徒歩約5分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報