改訂新版 世界大百科事典 「津野荘」の意味・わかりやすい解説
津野荘 (つののしょう)
京都の賀茂御祖神社(鴨社)社領。土佐国高岡郡吾井郷津野保(現,高知県須崎市吾井郷)に1100年(康和2)立荘。当時の田数30町。これよりさき1090年(寛治4)鴨社には遠江国河村荘ほか19荘,745町と御厨(みくりや)8ヵ所が朝廷より寄進されたが,その一荘である土佐国潮江荘は1100年の地震津波によって海没,その代替として立荘されたのが津野荘である。その後,鎌倉末期までには同郡多郷(現,須崎市)に荘域を拡大するとともに津野新荘を別立した。その新荘荘域は新荘川河谷の下流地域にある新荘の上分(現,須崎市),中・上流の半山(現高岡郡津野町,旧葉山村),そして南北朝期以降には峠を越して四万十川上流の東津野(現同町,旧東津野村),檮原(ゆすはら)(現,檮原町)に及んでいる。在地領主は中世土佐の名族津野氏で,家譜によれば同氏は913年(延喜13)土佐に入国,津野荘を開拓したとするが大いに疑問である。津野氏は本姓藤原氏,入国期は不明だが鎌倉期には在地領主として台頭,この荘名を姓としていたことが1333年(元弘3)には確認できる(潮崎稜威主文書)。津野本荘は1273年(文永10)と1305年(嘉元3),鴨社に対する社役がみられ,72年(文中1・応安5)には地頭津野繁高の地頭請(年貢80貫文)となっている。一方,津野新荘の領家職は鴨社禰宜家の梨木家,地頭職は鎌倉将軍家の御祈禱料所で,鎌倉初期(元仁もしくは暦仁),鴨社祝の鴨脚(いちよう)家の私領となり,戦国期に及ぶ。この新荘については領家と地頭に相論があり,1301年(正安3)下地中分(したじちゆうぶん)しており,現在の上分,下分の地名はこれに由来する。以後,室町期に地頭津野氏はしだいに鴨社への年貢を怠り,応仁の乱前後には津野荘年貢請高は京着20貫文,1489年(延徳1)には国定15貫文,京着10貫を下回っている。1529年(享禄2)鴨社はなお年貢を催促しているがその成否は不明で,これをもって津野荘は鴨社史料から消滅する。
執筆者:下村 效
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報