浜中村(読み)はまなかむら

日本歴史地名大系 「浜中村」の解説

浜中村
はまなかむら

[現在地名]酒田市浜中

あか川河口左岸、庄内西山砂丘上にある。西は日本海に面し、浜街道が通る。正平年間(一三四六―七〇)越後岩船いわふね中浜なかはま(現新潟県岩船郡山北町)からの移住によって成立したと伝え、のち道地どうじ(現鶴岡市)からも移住している(「浜中村由緒」浜中区有文書)。天保郷帳の高五四石余、庄内要覧では免三ツ四分、家数一八七。漁業と塩焼を業とし、正保三年(一六四六)に役塩二斗入二五俵(庄内三郡左沢浮役帳)。貞享三年(一六八六)地引網船一艘の役金二朱。宝永三年(一七〇六)には塩釜八一釜を所有し、一釜につき七升三合余で合計五石九斗余の御役塩を納めていたが、宝暦一三年(一七六三)には塩釜の数は同じで役銀は一一石三斗余となった(浜中村由緒)


浜中村
はまなかむら

[現在地名]厚岸あつけし郡浜中町霧多布東一条きりたつぷひがしいちじよう霧多布東二条きりたつぷひがしにじよう霧多布東三条きりたつぷひがしさんじよう霧多布東四条きりたつぷひがしよじよう霧多布西一条きりたつぷにしいちじよう霧多布西二条きりたつぷにしにじよう霧多布西三条きりたつぷにしさんじよう霧多布西四条きりたつぷにしよじよう湯沸とうぶつ暮帰別西ぼきべつにし暮帰別東ぼきべつひがし・大字浜中村・新川東しんかわひがし新川西しんかわにし新川しんかわ

明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三九年(一九〇六)まで存続した厚岸郡の村。さかき町の南にあり、東は浜中湾に面する。南西には琵琶瀬びわせ村の湿地が広がる。近世にはアツケシ場所のうち。「戊午日誌」(能都之也布誌)には当地付近が「シリシユツ浜中」とみえ、「是ホキシ(ラ)リヘツよりシリシユツサキまで、凡一里半も平砂原なるが故に号る也」と記される。


浜中村
はまなかむら

明治三九年(一九〇六)から昭和三八年(一九六三)まで存続した厚岸あつけし郡の村。明治三九年四月、さかき町・浜中村・霧多布きりたつぷ村・散布ちりつぷ村・琵琶瀬びわせ村・後静しりしず村が合併し、二級町村として成立。旧町村名を継承した六大字を編成した。大正八年(一九一九)四月一級町村制を施行。明治四〇年の戸数八〇三・人口三千七三八。同年を頂点に大正初期まで浜中湾・琵琶瀬湾の鰊漁は最盛期となり、建網・地引網のほか青森県八戸はちのへ方面からの旋網漁業が進出し、移住者も増加したが、以後鰊の薄漁期に入り昆布業や雑漁業に転ずるものが続出した。


浜中村
はまなかむら

[現在地名]里庄町浜中

北・東は新庄しんじよう村、南は西大島にしおおしま(現笠岡市)、西は富岡とみおか(現同上)正保郷帳新庄村の枝村として村名がみえ、元禄郷帳では独立村扱いとなっている。領主の変遷は新庄村と同じ。摂津麻田藩の藩医平井祐仙(号は善庵)は寛文(一六六一―七三)の頃独力で浜中新田を造成した(里庄村誌)。また享保一五年(一七三〇)横島入江よこしまいりえ新田(現笠岡市)完成にともなって浜中沖新田分一町八反余、高一八石余が当村分となった(笠岡市の→横島入江新田


浜中村
はまなかむら

[現在地名]古平郡古平町大字浜町はまちよう

明治初年(同二年八月―同六年の間)から同一二年(一八七九)まで存続した村。現古平町の北部に位置し、古平川左岸よりチョペタン川右岸にわたる。フルビラ場所絵図(増田家蔵)ハマナカとみえ、番家が置かれ、出稼小家二八軒とある。明治四年開拓使出張所が当地に置かれたという(状況報文)。同年の「北海紀行」では浜中とみえ、戸数九五。同年の「春日紀行」によれば、古平郡内では目無泊めなしどまりとともに「土夷棲居ノ地」(戸数三)であった(同年六月八日条)。同六年の「後志国地誌提要」に浜中村とあり、戸数一二六(出張所一・官邸七・平民一〇六・古民一二)、人口三九八(官員三三・平民三二九・古民三六)、寄留戸数四(すべて平民)・人口三七八(官員一五・平民三五九・僧四)、三半船一四・保津船三七・磯船四三・川崎船六・土人船三。


浜中村
はまなかむら

[現在地名]余市郡余市町浜中町・朝日町あさひちよう入舟町いりふねちよう美園町みそのちよう

明治初年(同二年八月―同六年の間)から同一四年(一八八一)まで存続した村。さわ町の南東にあり、西をヌッチ川、東を余市川が流れる。明治三年の「北行日記」に余市川の川向うに「浜中ト云フ人家六七軒アリ」とある(同年八月一二日条)。同四年の余市郡諸調書(開拓記念館蔵)にハルトロ村・ハマナカ村がみえ、鯡建網一三統。同六年の「後志国地誌提要」に浜中村とあり、戸数七八(官員二・平民六一・土人一五)・人口三七八(官員八・平民三〇八・土人六二)、寄留戸数一三(官員四・平民九)・人口一六三(官員一一・平民一五二)


浜中村
はまなかむら

[現在地名]男鹿市戸賀塩浜とがしおはま

男鹿半島の北西部、戸賀湾の南に位置する。西に塩戸しおど村、北に浜塩谷はましおや村がある。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「志まと村 かも村 黒崎村 富村 はま塩屋村 はま中村」として八四石八斗三升五合と記される。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に戸賀の内浜中とあり、高の記載はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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