日本歴史地名大系 「余市町」の解説 余市町よいちちよう 北海道:後志支庁余市町面積:一四〇・五六平方キロ明治三三年(一九〇〇)七月余市郡八ヵ町四ヵ村が合併して余市町が成立。積丹(しやこたん)半島の北東部の付根、後志支庁管内の北東部に位置する。北西部は古平(ふるびら)郡古平町、南西部は余市郡仁木(にき)町、南東部は同郡赤井川(あかいがわ)村、東部は小樽市に接する。北西部に湯内(ゆうない)岳(六四五メートル)・天狗(てんぐ)岳(八七二・三メートル)、西部に稲倉石(いなくらいし)山(七九五メートル)、南東部に大登(おおのぼり)山(五六五メートル)などがそびえる。これらの山嶺を水源とする梅(うめ)川・ヌッチ川・登(のぼり)川・畚部(ふごつべ)川などの小河川のほか、赤井川村・仁木町域より余市川が当町域に入って北流し、大川(おおかわ)町の西で日本海に注ぐ。海岸部を国道五号が通る。海岸部はニセコ積丹小樽海岸国定公園のうち。当町域の一帯は、近世にヨイチ場所が置かれた。明治二年八月の国郡画定に伴い同場所の領域にあたる一帯が余市郡として設定された。開拓使の管轄となり、余市川左岸の浜中(はまなか)村に余市郡出張所が置かれ、同年一〇月には堀口金十郎が着任した。同六年の「後志国地誌提要」には二ヵ町九ヵ村が記される。同八年余市・忍路(おしよろ)二郡を管轄する余市出張所が廃止、開拓使民事局の所轄となる(「開拓使日誌」同年八月三一日条)。同一四年七月に中(なか)町・琴平(ことひら)町・梅川(うめかわ)町が設置された(「事業略記」・郡区沿革表)。同三三年七月八ヵ町四ヵ村の合併で余市町が成立、一級町村制を施行。当時の戸数一千八一八・人口八千九五六(余市自治発達史)、同四三年後志支庁の所轄となる。大正一四年(一九二五)四月大江(おおえ)村の一部(下山道地区)を編入。近世末期以来沢(さわ)町を中心に形成された市街地は明治期には余市駅・余市市街などとみえる。明治三年の「北行日記」に余市駅・与一・与市運上屋とみえ、「与市駅ニ至ル入口ヲ沢町ト云フ(中略)人家二百軒余土人惣計三百人余ノ由」「浜中ト云フ人家六七軒アリ」とある(同年八月一二日条)。同年の永住者戸数一一七・人口五三〇、出稼戸数六三・人口二四八(余市漁業発達史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「余市町」の意味・わかりやすい解説 余市〔町〕よいち 北海道西部,石狩湾にのぞむ町。 1900年町制。地名はアイヌ語ユーチ (ヘビのいるところの意) に由来。江戸時代後期から昭和初期までニシン漁で繁栄し,明治4 (1871) 年会津藩士らの入植後,余市川沿岸の開拓が進んで農業が発達。リンゴ,ブドウ,ナシなどの果樹栽培とキュウリなどの野菜栽培が盛ん。余市港を基地に,スケトウダラ,イカ,カレイ,イカナゴなどの沿岸漁業も行われる。ウイスキー,ワインの醸造工場も立地。石狩湾岸は,ろうそく岩などの奇岩や絶壁などから成る風景美,海水浴場,釣場に恵まれ,ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定。このほかモイレ山のよいち水産博物館や,縄文時代の刻画が残るフゴッペ洞窟,旧下ヨイチ運上家などの史跡がある。 JR函館本線,国道5号線,229号線が通る。面積 140.59km2。人口 1万8000(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by