浜中(読み)はまなか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「浜中」の意味・わかりやすい解説

浜中(町)
はまなか

北海道東部、釧路(くしろ)総合振興局管内の町。南部は太平洋に面し、東は根室(ねむろ)市に接する。1963年(昭和38)町制施行。JR根室本線、国道44号が通じる。町名はアイヌ語の「オタノシケ」(砂浜の中央の意)を意訳したもの。酪農と水産業が基軸の町で、農用地のほぼ全域が根釧台地(こんせんだいち)上の牧草地。乳牛飼育などの機械化された大型酪農業が盛ん。水産業はサケ・マス漁やコンブ漁で、沿岸漁業が中心。漁獲高の半分はコンブである。沿岸にはラムサール条約登録湿地の霧多布湿原(きりたっぷしつげん)、湯沸岬(とうふつみさき)(霧多布岬)、火散布沼(ひちりっぷとう)などの景勝地が多く、厚岸霧多布昆布森(あっけしきりたっぷこんぶもり)国定公園の一部をなす。中心市街地は霧多布である。面積423.63平方キロメートル、人口5507(2020)。

[進藤賢一]

『『浜中町史』(1975・浜中町)』『『新浜中町史』(2015・浜中町)』


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改訂新版 世界大百科事典 「浜中」の意味・わかりやすい解説

浜中[町] (はまなか)

北海道東部,釧路支庁厚岸(あつけし)郡の町。人口6511(2010)。太平洋に面し,町域は標高60m内外の丘陵地と霧多布(きりたつぷ)島,嶮暮帰(けんぼつき)島などの小島からなる。気候は寒冷で春から夏にかけて濃霧が多い。中心集落の霧多布は霧多布島の砂州上にあり,1960年のチリ地震の津波で陸繫砂州の一部が切れたため,現在は霧多布大橋により陸地と結ばれる。内陸部の台地上をJR根室本線と国道44号線が通る。1869年(明治2)佐賀藩の支配地となり,同藩が12戸の農工民を移住させたのが定住最初という。70-71年漁場が榊富右衛門に貸し付けられ,陸奥,福山(松前),箱館から募集した漁民とともに湾奥の榊町付近に集落を形成,以後漁業入植者も増加した。内陸部では1917年ころから茶内原野を中心に開拓が進んだ。霧多布を中心にコンブを主とする沿岸漁業と水産加工,台地上で大規模酪農が行われる。町域南西部は厚岸道立自然公園に含まれ,霧多布湿原や,太平洋と霧多布湿原を一望する榊町高台,海岸美の湯沸(とうふつ)岬(トッカリ岬),海鳥の繁殖地として知られる嶮暮帰島など景勝の地が多い。
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百科事典マイペディア 「浜中」の意味・わかりやすい解説

浜中[町]【はまなか】

北海道東部,厚岸(あっけし)郡の町。太平洋に面し,根室本線が通じる。コンブの大産地として有名。中心集落は浜中湾に臨む漁港霧多布(きりたっぷ)で,水産加工が盛ん。1993年6月に霧多布湿原がラムサール条約登録湿地となる。東日本大震災で,町内において被害が発生。423.63km2。6511人(2010)。

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世界大百科事典(旧版)内の浜中の言及

【橋】より

… 第2次大戦後には世界の先進国と肩を並べ,あるいは彼ら以上に新技術を意欲的にとり入れて,日本の橋はめざましい進歩をとげてきた。55年完成の西海橋(鋼アーチ),66年につくられた天草五橋,73年建設の関門橋(つり橋)は,その各時点での日本の橋梁技術の画期的な成果であり,完成時点でプレストレストコンクリート桁橋として世界最長支間を誇った浦戸大橋(1972,支間230m),彦島大橋(1975,236m),浜名大橋(1976,240m)の諸橋,トラス橋として世界第3位の大阪の港大橋(1974)は世界の最高水準に達したもの,そして本州四国連絡橋に至って,世界の橋梁史上類例を見ない大プロジェクトを実現させたのである。
【橋の構成】
 橋の構造は,いわゆる橋桁と総称される上部構造と,これを支えて地盤に力を伝える下部構造とに大別される(図1-a)。…

※「浜中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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