デジタル大辞泉
「男鹿市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
Sponserd by 
男鹿市
おがし
〔原始〕
遺跡は寒風山東部台地と八郎潟低地の接点に大部分が分布し、海岸段丘上にも点在する。縄文前期に属する遺跡は、寒風山東部台地の浦田、北部海岸段丘上の野村、南西部海岸の椿がある。中期・後期・晩期における遺物も先の地域の周辺に多く、半島内陸部にはきわめて少ない。角間崎の西約五〇〇メートルの志藤沢(南秋田郡若美町)の台地上からは籾痕のある続縄文式土器が三例発見された。これにより南からの稲作を伴った弥生文化の影響を肯定しうる。志藤沢の南、百川・大倉・脇本・船越からは弥生式土器片が発見されるが、生活はおもに採集によっていたものと思われる。「日本書紀」斉明天皇四年に、蝦夷を代表して阿倍比羅夫に降伏した「齶田蝦夷恩荷」が弓矢を持っているのは肉食のためであり、戦をするためではないと述べたと伝えるのも、このような遺跡の分布を裏付けるものと思われる。
〔古代〕
「三代実録」元慶二年(八七八)七月一〇日条に「出羽国飛駅奏曰(中略)秋田城下賊地者、上津野、火内、榲淵、野代、河北、腋本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡十二村也」とあり、秋田城下一二ヵ村の蝦夷が蜂起している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
男鹿〔市〕
おが
秋田県西部,日本海に突出する男鹿半島の大部分を占める市。 1954年船川港町と脇本村,五里合 (いりあい) 村,男鹿中村,戸賀村の4村が合体して市制。 1955年北浦町,船越町の2町を編入。 2005年若美町と合体。地名は蝦夷名の恩荷 (おんが) に由来と伝えられる。安東氏の統治下に脇本城が築かれ,県内では最も早くから開けたところといわれる。南岸の船川港は県下有数の漁港で,江戸時代には避難港として利用された。船川に石油精製工場があり,石油備蓄も行なわれている。さらに木材コンビナートが形成されている。半島基部の申川,福米沢では石油,天然ガスを生産。また旧八郎潟西側では米作が盛んであるほか,丘陵地ではタバコ,果樹などが栽培される。豊富な観光資源に恵まれ,寒風山パノラマラインなどの観光道路も完成,寒風山 (355m) ,八望台,入道崎,男鹿温泉,戸賀湾などの景勝地が多く,男鹿国定公園に指定されている。ツバキ自生北限地帯は国の天然記念物。日本に数少ないマールの一ノ目潟,二ノ目潟,三ノ目潟がある。なまはげ行事,東湖八坂神社のトウニン (統人) 行事は国の重要無形民俗文化財。秋田市に通じる JR男鹿線の起点。面積 241.09km2。人口 2万5154(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 