浦和町(読み)うらわまち

日本歴史地名大系 「浦和町」の解説

浦和町
うらわまち

[現在地名]浦和市高砂たかさご一―四丁目・東高砂町ひがしたかさごちよう仲町なかちよう一―四丁目・東仲町ひがしなかちよう常盤ときわ一―一〇丁目・岸町きしちよう四丁目・同七丁目・別所べつしよ三―四丁目・本太もとぶと二―三丁目・白幡しらはた二丁目

現浦和市のほぼ中央部に位置し、北ははり村、東は本太村、南は岸村・別所村、西は大戸おおと(現与野市)。浦和領一三ヵ村の本郷(風土記稿)。戦国期には市が開設され、江戸時代には中山道の宿駅であった。

天正一八年(一五九〇)高力清長は徳川家康から岩槻二万石を与えられ、同時に浦和郷一万石も預けられた。清長は代官中村弥右衛門吉照(吉繁か)に支配させたが、直接江戸の官倉に年貢を納入させ、吉照は幕府代官となったという(寛政重修諸家譜・風土記稿)。以後江戸時代を通じて幕府領であった。田園簿では田一〇二石余・畑三三二石余、ほかに玉蔵ぎよくぞう院領一〇石があった。天保郷帳には「古者浦和町」として「宿村」とある。年不詳の村明細帳(岐阜県関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)によると、元禄三年(一六九〇)検地が行われ、本田高七二〇石余で、うち享保一〇年(一七二五)高入れ分三石余(皆畑)、反別田六町六反余・畑一三八町三反余。ほかに新田として高四三石余があり、検地は同一八年に行われている。五穀のほか、畑では人参・芋・牛蒡・大根・瓜・大角豆などを作り、農間に男は商売をし、女は木綿糸機を行った。紀伊徳川家の鷹場であった(同明細帳)。この鷹場では慶長九年(一六〇四)以降、徳川家康・秀忠、紀伊徳川頼宣・尾張徳川義直らが鷹狩を行っている(徳川実紀)。寛永一〇年(一六三三)二月同鷹場は紀伊徳川家に与えられ、以後浦和周辺は紀州鷹場と称されるようになった(同書など)。鳥見役は浦和宿本陣の星野家が代々勤めた。慶長期には将軍家などの鷹狩の際、宿泊所として御殿が設けられていたが、慶長一六年代官頭伊奈氏によって引払われたという(嘉永四年「浦和宿本陣由緒書」安中宿本陣文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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