浦添間切(読み)うらしーまぎり

日本歴史地名大系 「浦添間切」の解説

浦添間切
うらしーまぎり

沖縄島中部南端に位置し、西は海に臨み、北は宜野湾じのーん間切、東は西原にしばる間切、南は真和志まーじ間切。「琉球国旧記」「球陽」には浦添郡・浦添県とみえる。里積記によれば首里城から中間なかま村に置かれた間切番所まで八合六勺三才(三一町余)。もとは現在の浦添市のほか宜野湾ぎのわん市および西原にしはら町の一部にも及んだが、康熙一〇年(一六七一)宜野湾間切を分割、乾隆二年(一七三七)には棚原たなばる(現西原町)が西原間切に編入された。初め浦添代官の管轄下であったが、順治一七年(一六六〇)中頭代官の管轄下となり、雍正六年(一七二八)中頭方に属した(「球陽」尚敬王一六年条)

〔古琉球〕

「明実録」永楽一一年(一四一三)八月癸亥条にみえる「(頼)誰」は人名ではあるが浦添のこととされる。「海東諸国紀」所載の琉球国之図には「浦傍城」がみえる。尚清王代には羅瑞、丘剌子など人名の漢音宛字がみられる(「歴代宝案」第一集巻二九)。嘉靖四一年(一五六二)銘の君誇之欄干之記に「浦襲大臣」がみえる。万暦二五年(一五九七)九月吉日の浦添城の前の碑の表には「うらおそひ」、裏には「浦添」とあり、「おもろさうし」巻一五の二八などには「うらおそい」とみえる。

源為朝の一子尊敦が始祖とされる舜天王統(三代)、英祖王統(五代)、察度王統(二代、一三五〇―一四〇六年)などの中山王は当地を拠点としたとされる(「中山世鑑」など)牧湊まちなとうには為朝伝説が伝わり、淳熙七年(一一八〇)尊敦は一五歳にして浦添按司になったという(「球陽」舜天王附紀条)。同書察度王附紀条などによると日本の商船が牧湊に来航し鉄塊を販売、察度王(浦添按司)はこれを買収し農器を造らせたという。洪武五年(一三七二)には中山王察度が弟の泰期を初めて明に派遣、朝貢関係が始まった(「明実録」同年一二月壬寅条)。永楽二年武寧が中山初の中国冊封使の渡来をうけたが、同四年佐敷按司巴志(尚巴志)・思紹軍に攻められ滅亡(「明実録」、「球陽」察度王二三年条・武寧王一五年条など)、中山の拠点は首里城に移った。

第二尚氏三代尚真(在位一四七七―一五二六)から八代尚豊(在位一六二一―四〇)までの間、浦添王子の知行地となった(向姓高嶺家家譜など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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