清水登之(読み)シミズ トシ

20世紀日本人名事典 「清水登之」の解説

清水 登之
シミズ トシ

昭和期の洋画家



生年
明治20(1887)年1月1日

没年
昭和20(1945)年12月7日

出生地
栃木県

主な受賞名〔年〕
二科賞〔昭和5年〕

経歴
明治40年渡米。職を転々としながら絵を学び、大正6年ニューヨークに出てアート・ステューデンツ・リーグ入学。10年第34回アメリカ絵画彫刻展で「横浜風景」が受賞。アメリカを代表する画家となる。13年フランスに渡り、のち帰国。昭和5年独立美術協会の創設に参加した。作品に「プロクター座標」「支那街」「メリーゴーランド」「街の掃除夫」「薬を売る男」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「清水登之」の意味・わかりやすい解説

清水登之【しみずとし】

画家。栃木県生れ。成城学校卒,1907年渡米。1917年ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグに学ぶ。1924年渡仏,サロン・ドートンヌ入選。1926年帰国,二科会会友となる。1930年独立美術協会結成に参加。アメリカの庶民の姿を哀歓をもった作風で描いた。1973年栃木県立美術館で回顧展代表作《支那街》。
→関連項目栃木県立美術館

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清水登之」の解説

清水登之 しみず-とし

1887-1945 大正-昭和時代前期の洋画家。
明治20年1月1日生まれ。40年渡米し,シアトルフォッコ=タダマに,ニューヨークでジョン=スローンらにまなぶ。大正13年渡仏し,昭和2年帰国。二科展に出品し,「大麻収穫」「分譲地」で樗牛(ちょぎゅう)賞,「地に憩ふ」で二科賞を受賞。のち独立美術協会創立に参加。昭和20年12月7日死去。59歳。栃木県出身。成城学校卒。

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367日誕生日大事典 「清水登之」の解説

清水 登之 (しみず とし)

生年月日:1887年1月1日
昭和時代の洋画家
1945年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の清水登之の言及

【アメリカ美術】より

…アメリカでは19世紀末ごろジャポニスムが隆盛し,20世紀初頭には〈フェノロサ・ダウ方式〉という日本画の筆づかい等をとり入れた日本式美術教育が実施された。清水登之(とし)(1887‐1945),国吉康雄,石垣栄太郎(1893‐1958),野田英夫(1908‐39)らは,例外的にアメリカで学び活動した画家で,1910‐40年代にアメリカの現実社会をやや哀愁を帯びた調子で描いた。第2次大戦後は,アメリカ美術が日本の現代美術に直接大きな影響を与える。…

【国吉康雄】より

…同校でダウンタウンの風俗をおもに描いていたアメリカ画壇の指導的画家ミラーKenneth Hayes Miller(1876‐1952)の薫陶を受ける。授業は画学生の個性を引き出そうとする自由な方針で,同校には清水登之(とし)(1887‐1945),石垣栄太郎(1893‐1958),北川民次などの日本人画家も入学している。国吉は在学中に反アカデミズムを標榜する美術家集団ペンギン・クラブの会員となり,また同時代美術の擁護者H.I.フィールドの知遇を受けた。…

※「清水登之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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