ドイツの物理化学者。ファント・ホッフ、アレニウスと並ぶ物理化学の創立者の一人。またエネルギー一元論の強力な推進者としても著名である。9月2日、当時のロシア、ラトビアのリガに生まれる。生地で中等教育を終え、ドルパット(現、エストニアのタルトゥ)の大学で学位を得たのち、1881年リガ工業大学の教授となったが、このころより頭角を現し始め、「一般物理化学」の大著を書き、またファント・ホッフと協力して1887年2月『物理化学雑誌』Zeitschrift für Physikalische Chemieを創刊した。この雑誌はその後世界の物理化学を組織する役割を果たすことになる。こうしてオストワルトは、当時有機化学の黄金時代にあったドイツ化学界にあって、別の新分野「物理化学」を樹立したのである。そして1887年秋、当時のドイツでは唯一の物理化学の講座を創設すべくライプツィヒ大学の教授となり、その後約20年間にわたり、いわゆるライプツィヒ学派の総帥として活動し、全世界の大学に物理化学の教授を供給した。1906年同大学を退任、1909年にはその「触媒作用に関する業績、および化学平衡と反応速度に関する諸原則の研究」によりノーベル化学賞を受けた。まさに古典物理化学の全分野を行くものであった。
彼は科学の啓蒙(けいもう)と普及にも強い熱意を示し、ライプツィヒ着任直後の1889年から、いわゆる『オストワルト古典叢書(そうしょ)』Ostwalds Klassikerの刊行を始めた。これは自然科学の全古典をドイツ語に移す大事業で、その手始めは1847年にヘルムホルツがエネルギー保存則を提唱した論文である。これはオストワルトの死後も続けられ、二百数十巻に上っている。彼自身の著書は、「一般化学」(物理化学)に関する古典的名著のほか多数あり、啓蒙書としては、たとえば『化学の学校』Schule der Chemie(1903)が有名である。ライプツィヒ大学退任前から、専門の著述と『物理化学雑誌』の編集のほかに、科学史、科学哲学、さらには色彩論にまで至る思弁的生活への傾向を強めた。とくに有名なものは、マッハらとも同調したエネルギー一元論で、原子、分子のような「仮説」を排除して、全自然現象をエネルギー概念で統一しようとした。彼は晩年住んだ家を自ら「エネルギーの家」と名づけたほどである。この思想には消極面もあるが、ヘルムホルツのエネルギー保存則を不動の位置に据えた積極面が大きい。晩年には原子、分子の存在を容認するに至った。短い病気ののち1932年4月4日死去した。
[中川鶴太郎]
『都築洋次郎訳『化学の学校』(岩波文庫)』
ドイツの化学者。グレアムに始まるコロイド化学の大成者。ウォルフガング・オストワルトは、物理化学の創立者である大(フリードリヒ)オストワルトの子として、当時のロシア、ラトビアのリガで生まれる。ライプツィヒで生物学者として出発したが、やがて1915年に同大学のコロイド化学の教授となった。これに先だって1907年に、創立まもない『コロイド雑誌』Kolloid-Zeitschriftの編集者となり、1914年には『見すてられた次元の世界』を書いてコロイド次元の研究の重要性を訴え、1922年にはコロイド学会を創立した。フロイントリヒと並ぶコロイド化学の建設者の一人である。
[中川鶴太郎]
ドイツの化学者。ラトビアのリガの生れ。父親は桶造りを営んでいた。ドルパト大学で化学を修めて学位を得,リガ工業大学の化学教授,ライプチヒ大学の物理化学教授を歴任。1870年代から20世紀初頭にかけて物理化学の建設に大きな役割を果たし,1909年にノーベル化学賞を受けた。オストワルトの最初の研究はJ.トムセンによる酸の親和力に関する研究と関連するもので,種々の酸と塩基の間の化学平衡を,溶液の密度や屈折率の測定に基づいて研究した。さらに,アセトアミドの加水分解,酢酸メチルのケン(鹼)化,ショ糖転化の反応速度に種々の酸の及ぼす影響という面から酸の親和力について研究した。1884年には,アレニウスの論文を読んで,それまでの研究で明らかになった諸現象が酸の電気伝導度と関係していることにはじめて注目した。アレニウスが提出した解離説に基づいて,希釈律(オストワルトの希釈律)を数学的に表現し,非常に多くの有機酸の電気伝導度を測定することによって希釈律が成立することを示した。同時に,電解質の解離説を強く支持し,その正しさを証拠立てる多くの実験をも行った。また,触媒反応の研究を行い,アンモニアの接触酸化により硝酸を得る方法を助手のE.ブラウアーと協力して開発した。化学理論の一般化にも関心が深く,原子論に反対しエネルギー一元論を唱えたが,のちには再び原子論を認めた。一方,《一般化学教科書》(1885-87),《一般化学綱要》(1889),《分析化学の科学的基礎》(1894)など多数の教科書を著述し,また1887年にはJ.H.ファント・ホフと共同で《物理化学雑誌》を創刊したが,これらは物理化学の発展に重要な役割を果たした。このほか,《化学の学校》のような啓蒙書の執筆や,科学古典叢書〈Ostwalds Klassikerder exakten Wissenschaften〉の編集など科学教育面における業績も大きい。色彩論に関する多くの研究,著作もある。なおコロイド科学者として名高いウォルフガング・オストワルトWolfgang Ostwald(1883-1943)は彼の長子である。
執筆者:山口 宙平
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ドイツの物理化学者.当時ロシア帝国領であったラトビアで生まれた.1872年ロシア帝国内のドルパト大学で化学を学び,1875年に卒業,1878年学位を取得.1881年リガ工科大学の教授となり,1887年ドイツで唯一の物理化学教授としてライプチヒ大学に移った.1894年からは研究と雑誌の編集に専念し,1906年の退職後も研究と著作活動を続けた.初期の研究は親和力の定量的評価をめざしたもので,1878年の学位論文では,化学変化に伴う比容積や屈折率などの物理定数の変化を測定することで反応物の相対的な親和力を求めた.さらに1879年には化合物の溶解速度やショ糖(スクロース)転化の反応速度などの動的過程から酸の親和力を求めた.1884年S.A. Arrhenius(アレニウス)の電離説を知り,これを支持,電気伝導度より酸の親和力を決定し,1888年にはモル伝導度の測定から希釈律を導いた.1894年外部物質の存在による化学的過程の促進を触媒作用として定義し,触媒が可逆反応の熱力学的平衡をかえるものではないことをはじめて指摘した.また窒素と水素からのアンモニア合成およびアンモニア触媒燃焼による硝酸製造法を開発した.以上の成果により,1909年ノーベル化学賞を受賞.かれは1885~1887年に出版された“一般化学教科書”をはじめ多数の教科書を著し,1887年J.H.van't Hoff(ファントホッフ)とともにZeitschrift für physikalische Chemie(物理化学雑誌)を創刊し,1922年まで編集を行い,1894年電気化学協会を設立し,新しい学問分野である物理化学の確立に対して多大な貢献をした.ライプチヒ大学の研究室からは多くの研究者を輩出した.1890年代からは原子概念を排したエネルギー一元論にもとづく科学の再構成を主張して論争をよんだが,支持を広げることはできなかった.晩年には色彩に関する理論を研究した.
ドイツのコロイド化学者.有名な物理化学者F.W. Ostwald(オストワルト)の長男として,リガに生まれる.1904年ライプチヒ大学で学位を取得.1906年までカリフォルニア大学バークレー校でJacques Loebに師事,帰国後はライプチヒ大学でコロイド研究のかたわら,コロイドの教科書を3冊著し,コロイド学会(Kolloid Gesellsachaft)を創設(1922年),雑誌Kolloid-Zeitschriftの編集長を務めるなど,この学問の組織者として活躍した.主著“失われた次元の世界”(Die Welt der vernachlässigten Dimensionen,1915年)は,コロイド化学の啓蒙に寄与した.コロイドを分散系の概念でとらえ,分散相と分散媒に分けるなど貢献があったが,コロイド粒子を巨大分子とみる立場を否定し,コロイドを,一定の条件下にどのような物質でもなりうる物理的状態とみなした.
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…エネルギー論またはエネルゲティークは,このアトミスティークに対抗して提案されたもう一つの世界観である。 アトミスティークとエネルギー論との論争の最初のきっかけは,1895年にリューベックで開かれたドイツ自然科学者・医師協会総会の席上で,オストワルトが行った,ボルツマンらのアトミスティークを批判する講演であった。主としてこのオストワルトの立場をエネルギー論と呼ぶ。…
…すなわち多くのコロイド,たとえばアルブミンなどのタンパク質は結晶化され,一方ほとんどすべてのクリスタロイドはまたコロイドとすることができることが,実験事実として示された。これによりグレアムのいうコロイドは物質固有の性質を示すものではなく,物質がある大きさの微粒子に分散したときの状態を示すものであることが明らかとなり,F.W.オストワルト(1909)は分散度の概念を導入して分散系を表1のように分類した。このようにしてコロイドの概念は,初めグレアムが提案した物質そのものの分類としてではなく,物質のある分散状態を示すものとして確立されることとなった。…
…しかし,やや神秘的な〈触媒力〉の作用と考えたため,J.vonリービヒやL.パスツールはじめ,多くの化学者の批判を受けることとなった。
[オストワルトの定義]
19世紀の後半は物理化学の黎明期であった。ショ糖の転化速度を旋光度の変化から追跡し,速度がショ糖濃度に比例することを示した研究(1850)や,エチルアルコールと酢酸との酢酸エチルエステル生成平衡の研究(1862),あるいは化学平衡に熱力学を応用したJ.H.ファント・ホフやJ.W.ギブズの貢献によって,触媒の働きでは平衡値以上に反応を進行させえないという認識が,しだいに一般的になった。…
※「オストワルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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