清瀬村(読み)きよせむら

日本歴史地名大系 「清瀬村」の解説

清瀬村
きよせむら

[現在地名]五泉市清瀬

阿賀野川左岸の氾濫原に位置し、西は論瀬ろんぜ村に接する。古くは清兵衛せいべえ新田と称したと伝える(中蒲原郡誌)。慶長一九年(一六一四)の村上領高附並組々村覚(寛政六年写、五泉郷土史)では三本木組に属した。「巣本村史」によれば、万治二年(一六五九)村上藩検地があり、村高は六四石五斗余、家数三四。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、その後高田藩白河藩・忍藩領を経て、天保元年(一八三〇)以降は沼津藩領。寛保二年(一七四二)の論瀬組御検見村順御案内(大川原家文書)によると高四二石六斗余、家数二四・人数一四八。


清瀬村
きよせむら

[現在地名]安来市清瀬町、能義郡伯太はくた町清瀬

清井きよい村の南、伯太川右岸に位置し、南半(通称上清瀬村)は現在伯太町に属する。同川対岸は大塚おおつか村。正保国絵図に村名がみえ、元禄十年出雲国郷帳によると高三四七石余、うち永荒が一八一石余もあり残高一六六石余。寛文四年(一六六四)には本田高二九九石余・新田高二〇石余。「雲陽大数録」では高四五〇石。以上の村高は松江藩領分のみで、貞享元年(一六八四)以降は別に母里藩領分(上清瀬村)があった。


清瀬村
きよせむら

[現在地名]金沢市清瀬町

伏見ふしみ川の上流西岸、坪野つぼの村の北に位置する。「きうす」ともよんだ。正保郷帳では高九二石、田方三町一反余・畑方三町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高九九石・免六ツ二歩で、ほかに山役一七五匁・蝋役七匁・漆役一三匁の小物成が賦課されていた(三箇国高物成帳)


清瀬村
きよせむら

[現在地名]伯太町安田やすだ、安来市清瀬町

安田村北西、伯太川右岸に位置し、当地で安田川が伯太川に合流する。正保国絵図に村名がみえ、天保郷帳によると母里藩領(高二八一石余)と松江藩領(高三四七石余)の相給。母里藩領分の明治二年(一八六九)の反別は一〇町一反余(「旧母里藩管内反別」県庁蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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