日本歴史地名大系 「安田村」の解説
安田村
やすだむら
村名は、一五世紀半ば以前の成立とみられる隣村吉舎村
安田村
やすだむら
安田川河口に位置し、東は
天正一五年(一五八七)の安田庄地検帳では安田浜として一括され、安田(惟宗)氏の被官で刀禰を務める久左衛門の屋敷をはじめ六七筆の屋敷が集中して記される。田畑合計二町六反余に対し、屋敷面積は三町五反余にのぼる。住民の職業は記載はないが、安田川の川港に発達した集落として、当然相当数の水主が居住したはずで、安田氏配下のため注記されなかったらしい。ちなみに慶長八年(一六〇三)の東浦船頭水主帳では「安田水主之事」として「合弐十六人 内弐十一人有水主屋敷被遣分、三人塩やき舟にも乗分、弐人御扶持人之船頭」とあり、「右之外 家数五間舟大工 内家大工弐人、同壱間鍛冶、同弐間庄屋小使、同三間年寄、同六間塩やき、同弐十七間後家やもめ何も役ニ不立」とある。
安田村
やすだむら
- 新潟県:柏崎市
- 安田村
安田村
やすだむら
安田村
やすだむら
安田村
あだむら
安田村
やすだむら
安田村
やすだむら
安田村
やすだむら
木島平と
この地は木島氏の重要な拠点であったが、南北朝時代に
安田村
やすだむら
安田村
やすだむら
安田村
やすだむら
元和五年(一六一九)福島氏改易により、水野氏が福山藩主として入部した折の村高は四七八石八合(備後国知行帳)であるが、その後水野氏断絶後の元禄一二年(一六九九)幕府の命によって岡山藩が行ったいわゆる備前検地では、一五五石余増えて六三三石六斗三升六合で、畝高五七町余(「備後国甲奴郡安田村御検地水帳」旧上川村役場蔵)となっており、前年の備後国福山御領御検地村々石盛窺帳(「広島県史」所収)には、安田村は甲奴郡内で「上地之見立」の村とされている。
安田村
やすだむら
- 富山県:滑川市
- 安田村
安田村
やすだむら
安田村
やすだむら
- 京都府:宇治市
- 安田村
村成立に関する伝えはまったくなく、その位置が久世郡条里の六条北端の里の六ノ坪にあたることは知られているが、民家の定着が古代にさかのぼるとは断定しがたい。近世には幕府領であり、元禄一三年(一七〇〇)山城国郷帳以後、村高は一五八・九九一石で以後異動はない。
安田村
やすだむら
安田村
やすだむら
- 秋田県:横手市
- 安田村
安田村
やすだむら
安田村
あんだむら
安田村
やすだむら
安田村
やすだむら
安田村
やすたむら
- 青森県:青森市
- 安田村
東は
貞享四年(一六八七)の検地帳に村高三五六・〇九九石とあり、うち田方三一二・七四二石、畑方四三・三五七石とある。元禄三年(一六九〇)には油川組に属し、村位は下である(平山日記)。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、寛政一〇年(一七九八)に一一四・三石、文化九年(一八一二)に一八二石、文政二年(一八一九)に八二・六石の新田高が書上げられている。
安田村
やすだむら
安田村
やすだむら
安田村
やすだむら
安田村
やすだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報