安田村(読み)やすだむら

日本歴史地名大系 「安田村」の解説

安田村
やすだむら

[現在地名]吉舎町安田

三谿みたに郡の東端に位置し、北から東は上下じようげ川を隔てて甲奴こうぬ郡と、東南は世羅郡と境を接する。東の甲奴郡安田村(向安田・甲奴安田とよんだ)は、他藩領(享保二年以降は豊前中津藩領)であったので、三谿郡での領分追放の刑は両安田村境で行われていた。

村名は、一五世紀半ば以前の成立とみられる隣村吉舎村大慈だいじ寺蔵の「宗綱語録」に「備后州三谷郡安田村居住 辻塚孝男藤原春実」とみえ、文禄三年(一五九四)七月、毛利輝元が坪井新四郎に与えた宛行状(「閥閲録」所収坪井与三兵衛家文書)に「父杢助(元政)跡目給地之事(中略)備後国安田村四拾石足等之事、無相違遣置之候、全令知行、諸公役等不可有緩者也」とある。


安田村
やすだむら

[現在地名]安田町安田

安田川河口に位置し、東は田野たの(現田野町)、西は唐浜とうのはま村。集落の中心は安田川西岸に発達した浦町で安田浜・安田浦ともよばれた。東岸の大野おおの台地南縁には不動ふどうなどの集落があり、海岸沿いには土佐街道(東街道)が通る。「和名抄」所載の安田郷の中心と思われ、安田八幡宮境内から弥生式土器なども出土、古くから発達した地と考えられる。中世は安田庄に含まれた。港としても発達していたらしく、文安二年(一四四五)一年間に兵庫津に入港した廻船を記した「兵庫北関入船納帳」に、安田浦に船籍をもつ一〇〇―二〇〇石積の廻船一艘が記される。積荷は木材である。

天正一五年(一五八七)の安田庄地検帳では安田浜として一括され、安田(惟宗)氏の被官で刀禰を務める久左衛門の屋敷をはじめ六七筆の屋敷が集中して記される。田畑合計二町六反余に対し、屋敷面積は三町五反余にのぼる。住民の職業は記載はないが、安田川の川港に発達した集落として、当然相当数の水主が居住したはずで、安田氏配下のため注記されなかったらしい。ちなみに慶長八年(一六〇三)の東浦船頭水主帳では「安田水主之事」として「合弐十六人 内弐十一人有水主屋敷被遣分、三人塩やき舟にも乗分、弐人御扶持人之船頭」とあり、「右之外 家数五間舟大工 内家大工弐人、同壱間鍛冶、同弐間庄屋小使、同三間年寄、同六間塩やき、同弐十七間後家やもめ何も役ニ不立」とある。


安田村
やすだむら

[現在地名]柏崎市安田

鯖石さばいし川両岸に迫る丘陵のうち、西丘陵が消え、下流氾濫地帯の入口にあたる西岸の村。東は鯖石川を挟んで北条きたじよう村、西は上田尻かみたじり村、南は加納かのう村。集落は低位河岸段丘に下流から三ッ家みつや中道なかんどう・安田・鳥越とりこえ、西方高位段丘上に城之組じようのくみ明神みようじんがある。文明一八年(一四八六)道興准后の「廻国雑記」に「やすだ、山むろ、みをけ」と記され、柏崎から鯖石川沿いに遡上して三国街道へ結ばれる。鵜河うかわ庄安田条の遺称地。暦応四年(一三四一)四月一三日の上杉朝定寄進状(安国寺文書)によると、丹波国光福こうふく(現京都府綾部市安国寺)へ「越後国鵜河庄内安田条上方」が寄進されている。しかし当地には毛利安田氏が地頭と称して居住しており、光福寺の領有には至らなかった。応安七年(一三七四)四月二七日の毛利道幸譲状(毛利安田氏文書)によると、「鵜川庄内安田条」の地頭職は毛利道幸(憲広)が恩賞として受け、子の修理亮朝広(のちの憲朝、法名常全)に譲ったとある。


安田村
やすだむら

[現在地名]会津高田町 前川原まえがわら堰場せきば上台かみだいした二百刈にひやくがり下台しもだいした大西おおにし西竹にしたけはな東竹ひがしたけはなといこしみやこし千刈せんがり八百刈はつぴやくがり・安田・村北道上むらきたみちうえ村北道下むらきたみちした廟所北びようしよきただんまえ村東むらひがし村前むらまえ水戸みと大道端だいどうばた向八百刈むかいはつぴやくがり高水口たかみずくち水呑川原みずのみがわらさいかみ大新田道西おおしんでんみちにし大新田道東おおしんでんみちひがし

みや(鶴沼川)下流左岸、氷玉ひだま川との合流点近くにあり、東対岸は会津郡大島おおしま(現北会津村)、北は佐布川さぶかわ村、西と南は高田村に続く。土地は肥沃だが、度々水害を受けている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四五一石余。寛文五年(一六六五)の「高田組郷村万改帳」では本田高三七九石余、古開並新田高一四六石余、免六ツ九分三厘余、家数四七、竈五三、男一三三・女一一〇、馬二五(うち五調二)


安田村
やすだむら

[現在地名]内海町安田・木庄きのしよ

嶮岨けんそ山系の主峰ほしじよう(八一六・七メートル)山麓にあり、中央を安田大やすだおお川・木庄川が南流して流域に肥沃な平地が開け、安田・木庄の集落が形成される。南西部は内海湾に面する。草加部くさかべ郷の枝村。北部山裾の三五郎さんごろう池畔の巨岩の下から袈裟襷文の小型の銅鐸および平形銅剣が発掘され、またその南側の粟地あわじからは弥生式土器片が多量に発見されている。中・近世以降、諸口もろぐち池・古郷こごう池・縄手なわて池などの灌漑用池が掘削され、当地域随一の稲作地帯であった。年寄岡田家は草加部庄利貞名名主の後裔で、嘉吉の乱後この地に移住した赤松氏の一族といわれ、のちに赤松氏を称した。木庄には年寄・組頭など独立の村役人が存在したが、つねに当村に包含されていた。木庄の年寄を勤めた伝左衛門の祖渋谷大膳は大坂の陣で大坂城に入城して戦死したと渋谷家の系図は伝える。


安田村
あだむら

[現在地名]国頭村安田あだ

楚洲すし村の南方に位置し、東は安田あだ(アラハ)ヶ島が浮ぶ太平洋に臨む。西の伊部いぶ(三五一・八メートル)の麓から安田あだ川・伊部いぶ川が東流して太平洋に注ぎ、集落は安田川河口左岸に立地する。万暦一五年(一五八七)二月一二日の安田里主所安堵辞令書(沖縄県国頭郡志)によると、「あたの大や(こ脱)(安田大屋子)に安田里主所が与えられている。正保国絵図・絵図郷村帳・琉球国高究帳に国頭くんじやん間切「あだ村」とみえる。同高究帳では高頭一六石余、うち田一二石余・畠四石余。「琉球国由来記」では安田村と記され、当村の拝所であるヨリアゲ森(神名マウサテサククモノ御イベ)、および神アシアゲは安波ノロが祭祀を管轄。安田には「御位ノ時ノクェナ」という貴重なウタが伝わっており、「やんばるの祭りと神歌」は「おそらく百姓身分の間切役人またはムラ役人に与えられる位階を頂戴したときの祝いの座でうたわれた歌」としている。


安田村
やすだむら

[現在地名]油木町安田

東西の油木村の南に位置、北・西・南の三方をほぼ六〇〇メートル級の山地で囲まれ、谷々から流れる小川を集めて北流する安田川と阿下あげ川の流域に集落が開け、東部を南北に東城路が通る。地域的に比較的まとまった村で、元和五年(一六一九)の備後国知行帳によれば二六五石余、その後、西方にあった畝畠うねはたけ村を合併、元禄一三年(一七〇〇)の備前検地では安田村一村として高付され二八二石余となる。福山藩水野氏断絶ののち幕府領、享保二年(一七一七)以降豊前国中津藩領。


安田村
やすだむら

[現在地名]熊毛町大字安田・大字中村なかむら

北ははら、西は呼坂よびさか、南東は小松原こまつばら、東は清尾せいのおの各村と接する山間の小村。村の東部を島田しまた川が南西に流れ、川岸に平地が広がる。熊毛宰判に属した。

中世には国衙領安田保の地であったと思われる。慶長一五年(一六一〇)の検地帳には樋口ひぐちほか五地域と合石で記載される。元禄一二年(一六九九)の郷帳では村名は記されず、「地下上申」で安田村とみえる。「地下上申」は「安田村と申ハ往古は桜田村と申由、唯今之桜田権現宮作所永正年中之頃、高水より権現勧請相成、桜田権現とあかめ奉り候故、村名改メ安田村と申由」と由来を記す。


安田村
やすだむら

[現在地名]飯山市大字木島

木島平と中野平なかのだいらとを限る丘陵が千曲川に迫る所、千曲川によって形成された自然堤防に接した集落。高社こうしや山以北のいわゆる岳北地方への咽喉部に位置し、飯山地方への渡河地点であったので、中世は戦略上の要害地であった。

この地は木島氏の重要な拠点であったが、南北朝時代に櫪原くぬぎはら(現上高井郡小布施町)に本拠をもつ高梨氏が進出するに及び、木島氏もその配下になった。安田の初見は明徳三年(一三九二)三月の高梨朝高の幕府への所領言上状案(高梨文書)で、「信濃国高井郡安田郷并大蔵郷之事、彼両郷者、去応安三年十一月十五日、以一紙御判、朝高当身拝領畢」とあり、木島氏は応永七年(一四〇〇)大塔合戦に討死した朝高のもとで活躍している。


安田村
やすだむら

[現在地名]婦中町安田

井田いだ川中流右岸に隣接し、西はうしくび用水を隔てて呉羽山くれはやま丘陵、南は小泉こいずみ村、北は金屋かなや(現富山市)。寛永一〇年(一六三三)牛ヶ首用水在々水割帳(牛ヶ首用水土地改良区蔵文書)によれば、小泉村・下条げじよう村とともに縦七寸・横六寸一分の取入樋の権利を有している。飛騨に抜ける道が通り、正保四年(一六四七)の「越中道記」に五福ごふく(現富山市)から当村まで一里一二町、道幅二間とある。正保郷帳では高七六九石余、田方二五町五反余・畑方二五町七反。享保六年(一七二一)の高七九五石余(「村付高改帳」島倉家文書)


安田村
やすだむら

[現在地名]世羅町安田

北隣の戸張とばり村に発し当村を経て北流する戸張川およびその支流で形成された谷々からなる農村。中世には大田おおた庄大田方山中やまなか郷に属し、近世には山中庄六ヵ村のうちとされた。建久元年(一一九〇)六月日付僧鑁阿置文(高野山文書)に大田庄の村々別作田のうちに「安田ノ大萱」とみえ、大萱おおかやは「芸藩通志」によると上安田かみやすだ谷の北東山中に位置する。嘉禎二年(一二三六)九月二七日の備後国大田庄山中四郷在家目録(高野山文書)によると、安田には地頭・公文・定使・今高野供僧などの在家二四宇があった。


安田村
やすだむら

[現在地名]吉舎町上安田かみやすだ甲奴こうぬ郡甲奴町抜湯ぬくゆ

三谿みたに郡安田村の東に続く村で、甲奴郡に属し、三谿郡安田村と区別して向安田むこうやすだ甲奴安田こうぬやすだとよばれた。西端を上下じようげ川が西北流する。中世には田総たぶさ庄に属したと思われ、その地頭長井氏(田総氏・永井氏とも)の支配下にあった。

元和五年(一六一九)福島氏改易により、水野氏が福山藩主として入部した折の村高は四七八石八合(備後国知行帳)であるが、その後水野氏断絶後の元禄一二年(一六九九)幕府の命によって岡山藩が行ったいわゆる備前検地では、一五五石余増えて六三三石六斗三升六合で、畝高五七町余(「備後国甲奴郡安田村御検地水帳」旧上川村役場蔵)となっており、前年の備後国福山御領御検地村々石盛窺帳(「広島県史」所収)には、安田村は甲奴郡内で「上地之見立」の村とされている。


安田村
やすだむら

[現在地名]滑川市安田

早月はやつき川が形成した旧扇状地(台地)と新扇状地(平野)の境界付近に位置し、西は大坪新おおつぼしん村、北はしば村。正保郷帳では高五八二石余、田方三八町四反余・畑方四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高六一七石、免四ツ五歩、小物成は山役九六匁・蝋役六匁(三箇国高物成帳)。所属組は寺家じけい村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は勘右衛門、家数三六(百姓三四・頭振二)


安田村
やすだむら

[現在地名]鶴見区安田一―四丁目

茨田まんだ郡に属し、はま村の東にある。同村境をふる川が南下し、南端三島みしま新田との境を古堤ふるづつみ街道が通る。弥生式土器を出土した茨田安田まつたやすだ遺跡がある。久安元年(一一四五)の近衛天皇綸旨(「河内国小松寺縁起」所収)に「安田」がみえるが、この文書は検討の余地がある。「北野社家日記」明応二年(一四九三)二月二三日条に「八ケ所村々名事、罷上僧如此申也」として「安田」がみえ、北野社領八箇所はつかしよに含まれていた。


安田村
やすだむら

[現在地名]宇治市安田町〈鵜飼田うがいでん五反坪ごたんつぼ大納言だいなごん

巨椋おぐら池の南岸に接し、西は市田いちだ(現久世郡久御山町)、東は伊勢田いせだ村、南ははやし(現久御山町)と境していた。集落は村域西南隅にあり、条里地割の方一町を占める盛土集落であるが、村内には神社・寺院ともになく、耕作地は低湿で、近代にも浸水の災いがしばしばであり、収穫皆無の年が多かった(巨椋池干拓誌)

村成立に関する伝えはまったくなく、その位置が久世郡条里の六条北端の里の六ノ坪にあたることは知られているが、民家の定着が古代にさかのぼるとは断定しがたい。近世には幕府領であり、元禄一三年(一七〇〇)山城国郷帳以後、村高は一五八・九九一石で以後異動はない。


安田村
やすだむら

[現在地名]加古川市尾上町安田おのえちようやすだ

長田ながた村の北に位置する。村の中央部を別府べふ川が流れる。正中三年(一三二六)鶴林かくりん寺法華堂(太子堂)修理の際の木部銘によると同寺講堂の一和尚上総公・六和尚因幡公は安田出身であった。永正一二年(一五一五)八月日と天文三年(一五三四)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)には、安田・東安田・中安田・西安田に鶴林寺散田の作人がみえる。嘉吉二年(一四四二)四月二〇日、米田よねだ(現高砂市)定願じようがん寺鎮増は安田の円満寺(現廃寺)へ来ている(「鎮増私聞書」昌楽寺蔵)


安田村
やすだむら

[現在地名]横手市安田

横手前郷よこてまえごう村の南、羽州街道の西側にある。元和八年(一六二二)の横手大眼宗事件に関連した旧記(沼田氏蔵)に「元和之頃伊達左門殿知行所之百姓共(中略)町宿百姓共之手廻百人斗(中略)搦申候。其後安田村に張付八十ケあまり、其外打首数十人」とある。村の東側にある石切場南に昭和三〇年(一九五五)頃まで二本松があり、埋め塚とよばれた。松の根元に同事件で処刑された人々の遺骸、また天明(一七八一―八九)や天保四年(一八三三)の飢饉の餓死・行倒れの者を埋めたともいわれる(横手郷土史資料)


安田村
やすだむら

[現在地名]海津町安田

安田新田の南、揖斐いび川左岸に立地し、東は沼一色ぬまいつしき村、南東は帆引ほびき新田。慶長郷帳に村名がみえ、高一二〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳には安田帆引村とあり、新開二石余、田三石余・畑七〇石余、野年貢五〇石余で、同藩領。元禄郷帳には安田村とあり、高一二四石余で幕府領。村明細帳によれば、安永四年(一七七五)の田一五石余・一町五反余、畑四九石余・七町九反余、家数五九・人数二二四、鎮守は神明宮で、寺は願船がんせん(現真宗大谷派)、慶応四年(一八六八)の高三四石余、家数四〇・人数一八六。


安田村
あんだむら

[現在地名]国府町安田

中郷ちゆうごう村の西に位置する。村名は安田大夫が居住したことにちなむという。延暦三年(七八四)に成立したとされる伊福部臣古志(伊福部家文書)によると安田大夫は法美ほうみ郡司伊福部氏本宗の池淵太夫の流れから分家したという。寛文大図(倉田八幡宮蔵)国分寺こくぶんじ村との間に記されている「神楽田」「宝蔵田」「御倶田」などは国分寺や宇倍うべ神社にかかわる地名と推定される。文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)によれば四至を中郷村に囲まれていた。


安田村
やすだむら

[現在地名]篠山市安田

藤之木ふじのき村の南に位置し、籾井もみい川が流れる。正平一二年(一三五七)の開創という曹洞宗大日だいにち寺があったがのち廃され、現在は大日堂の前に延文三年(一三五八)銘の宝篋印塔が残る。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「安田村」とみえ、高三一八石余。正保郷帳では田高二八〇石余・畠高三八石。「丹波志」では真継まつぐ(穀井庄)のうちで、高二三九石余。


安田村
やすだむら

[現在地名]姫路市安田一―四丁目

飾西しきさい郡に所属。手柄てがら山の東、三左衛門さんざえもん堀の西に位置し、南は栗山くりやま町など。天正九年(一五八一)九月九日の惣社集日記(智恵袋)によれば、惣社(射楯兵主神社)の氏子村で大永元年(永正一八年、一五二一)五月の神事に「安田村」農長吉田新介と村民五〇人が参加している。慶長国絵図に「安田」とみえる。


安田村
やすたむら

[現在地名]青森市安田

東は大野おおの村、南は細越ほそごえ村、北は浪館なみだて村に接し、西は山。

貞享四年(一六八七)の検地帳に村高三五六・〇九九石とあり、うち田方三一二・七四二石、畑方四三・三五七石とある。元禄三年(一六九〇)には油川組に属し、村位は下である(平山日記)。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、寛政一〇年(一七九八)に一一四・三石、文化九年(一八一二)に一八二石、文政二年(一八一九)に八二・六石の新田高が書上げられている。


安田村
やすだむら

[現在地名]福井市安田町

ほり村の西、未更毛みさらげ川左岸に集落があるが、耕地は対岸に広がる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では安居あご保に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方四六一石余・畠方一九二石余。福井藩領。


安田村
やすだむら

[現在地名]大分市上判田かみはんだ 米良めら小岳こだけ

判田川の上流、本宮ほんぐう(六〇七・五メートル)の東麓にあり、北東は米良村。元禄一一年(一六九八)の御代官所郷帳(臼杵藩政史料)によると高五八石余、幕府領。


安田村
やすだむら

[現在地名]榛原町大字安田

笠間かさま川沿い、雨師あめし村の西方に位置。永享七年(一四三五)の「長谷寺霊験記」に、寛平年中(八八九―八九八)大和国宇多うだ郡安田村の基守という者が観音信仰によって大富貴(蓑丸長者)となり、安田塔を建てたという説話を載せる。

近世は式上郡に属し、慶長郷帳の村高二四四・五石。


安田村
やすだむら

[現在地名]彦根市日夏町ひなつちよう

筒井つつい村の南西に位置。慶長高辻帳に村名がみえ高二八〇石余。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で六ツ五分。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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