湯所村(読み)ゆところむら

日本歴史地名大系 「湯所村」の解説

湯所村
ゆところむら

[現在地名]鳥取市湯所町一―二丁目・材木町ざいもくちよう丸山町まるやまちよう東町ひがしまち三丁目・松並町まつなみちよう三丁目・青葉町あおばちよう三丁目

久松きゆうしよう山の北西山麓、惣堀そうぼりふくろ(旧袋川)の間に位置し、袋川を挟み西は田島たのしま村。鳥取城の惣構中にただ一つ立地する在方の村。鳥取城下を発した但馬往来が通過する最初の村で、丸山山麓に支村丸山がある。永禄六年(一五六三)四月五日の山名豊数感状(中村文書)に「湯所」とみえ、同月三日の合戦で討死した中村伊豆守の働きを賞している。この合戦は高草たかくさ布施の天神山ふせのてんじんやま城を拠点とした因幡国守護山名豊数と、鳥取城を拠点としたその臣武田高信との合戦で、湯所合戦とよばれる。羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、毛利方は当地東の雁金かりがね山頂に鳥取城と千代川際の出城丸山城とのつなぎのため雁金城を築いたが、秀吉方の宮部継潤により攻め落されたという(因幡民談記)

藩政期の拝領高は二七一石余、本免五ツ七分。安政五年(一八五八)の生高二一〇石余、物成一一二石余(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。「因幡志」によれば家数四九、うち茶屋一七。安政五年の村々生高竈数取調帳によれば竈数一二八、うち家中自分屋敷七。当村の山は城山(久松山)に連なっているため、承応四年(一六五五)以来入山が禁止され(寺社方御法度)、明暦三年(一六五七)には円護寺えんごじ村へ通じる坂道に番所が建てられ天徳てんとく口とよばれ、鉄砲衆が二、三人番を勤めた(町方御定)。天徳寺前には山奉行の詰所も置かれ、文久三年(一八六三)には同寺前の坂道に木戸が建てられた(「在方諸事控」など)。宝暦一〇年(一七六〇)千代川と袋川の合流点近くの土手、通称小松原こまつばらに縊死人があり(因府年表)、その処理費用の分担をめぐって田島村との間に示論争が起こり、藩は同一二年土手馬踏道の東を当村、西を田島村とする裁許を下した(在方諸事控)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報