日本歴史地名大系 「満徳寺跡」の解説 満徳寺跡まんとくじあと 群馬県:新田郡尾島町徳川郷満徳寺跡[現在地名]尾島町徳川 石代尾島町南西部、利根川北方の早(はや)川左岸にあった。時宗一本寺、徳川(とくがわ)満徳寺、尼寺御所とも称するが、山号院号はない。本尊阿弥陀如来。開山は浄念尼、開基は新田(世良田・徳川)義季と伝える(「由緒書」寺旧蔵)。浄念尼は義季の娘、二代浄院尼は義季の孫。浄念尼については信憑性ある文書はないが、二代の浄院尼については、建治三年(一二七七)一二月二三日および元亨二年(一三二二)一一月二〇日付の長楽(ちようらく)寺への寄進状案(長楽寺文書)にその名がみえるので、当寺の創建は建治以前と考えられる。つづいて三代念空尼・四代慈円尼の名が過去帳(寺旧蔵)に記載されている。しかし浄院尼の過去帳の遷化年月日が前出の建治三年の寄進年月日と同一であること、また三代念空尼、四代慈円尼も長楽寺への寄進状があり(永仁五年六月一一日「尼慈円・尼念空寄進状案」長楽寺文書)、慈円尼も遷化と寄進年月日が同一であるので、由緒書・過去帳とものちに長楽寺文書に付会して伝えられたものと考えられる。とはいえ代々の遊行上人が自書した「時衆過去帳 尼衆」に、遊行二一代知蓮(明応六年―永正一〇年)が「徳川 大一房」と記入しているので、この時期に満徳寺が時宗の尼寺(道場)であったことは確実である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by