聖域,平和領域を意味するドイツ語。英語ではasylum。ギリシア語の〈不可侵〉という語asylonに由来するアジールの制度は人類最古の法制度のひとつであり,特定の空間,人物,時間とかかわった人間が一時的に,あるいは持続的に不可侵な存在となる状態あるいはその場を示している。アジールの歴史は社会と法の構造,宗教と道徳のあり方によっていくつかの段階に分けられる。まず宗教的・呪術的な段階においては,ユダヤ教の祭壇やギリシア・ローマの神殿,ゲルマンの森などの神聖な場所や物と接触した人間が不可侵な存在となる状態を意味し,その場所に逃げこんだ者の人格や逃亡の理由は問われないし,動物でさえも保護される。この段階のアジールにはまだ倫理的・法的性格は弱い。旧約聖書にみられる〈のがれの町〉はこの段階から次の段階への過渡的性格をもつものとみられる。その次の段階は世俗国家が形成され,農耕や商取引が活発化し,国家がすべての人間関係を法でとらえようとするときに生ずる。しかし国家はいまだ民衆の生活の末端にまで法を施行する力を備えていなかったから,復讐,私闘が正当な権力行使の手段とされていた時代に,その行過ぎを是正するためにアジールの制度が必要とされた。ほかに犯罪者,外国人,奴隷などのためのアジール,債務者のアジールなどが出現し,いずれも国家権力が介入しえない場として位置づけられていた。この段階においてアジールに逃げこむ者の資格が問題になってくる。世俗国家権力の確立とともに,故意の殺人と過失致死が区別され,前者にはアジールは認められなくなる。古来,家が享受していたアジール権もヨーロッパでは13世紀ころから制約されはじめ,条件付きで官憲の立入りが認められるようになる。祭りや市の期間のような時間のアジールにもこの段階において神の平和やラント平和令など,公権力のなかに吸収されてゆくものが現れる。カトリック教会は一貫してアジール権を主張しつづけていたが,世俗国家との関係のなかで譲歩を重ね,やがて法と生活の合理化,人文主義の浸透などとともにアジールは法の施行の障害とされ,16世紀から18世紀の間に各国で廃止されてゆく。現在では外交官特権や赤十字などにわずかにその痕跡をみるにすぎないが,亡命者の受入れや増大してくる難民の受入れの問題として,アジール権の問題はきわめて現代的な様相を帯びて現れており,決して遠い過去の問題ではない。
→政治的保護
執筆者:阿部 謹也
日本におけるアジールは古くから存在したと推測されるが,史料上では鎌倉時代以降に認められ,とくに寺院において発達した。寺院は元来慈悲をほどこすものであり,境内における殺生は禁断とされたので,寺内に逃げ入る犯罪者や奴婢を追手の追及から免れしめようとするのは自然であった。寺院にアジールを意味する遁科屋(たんかや)と称する建物のあったこと,また高山寺の明恵上人が北条泰時に〈敗軍の兵士来りなば袖の下,袈裟の裏なりとも隠してとらす〉と自らの命を賭した話は,寺院のアジールを顕著に現している。これは寺への駆込みによって,世俗の権力や権利義務関係からも絶縁するという〈無縁〉の原理にささえられ,しかも不入の権とあいまって,室町時代末期から戦国時代にかけて諸国に普及し,分国大名の菩提寺などが〈無縁所〉としてアジールの特権を与えられた。しかし各分国内の政治的統一が強化されるとともに,この特権も,楽市・楽座などの特権と同様に,しだいに制限され否定されるに至った。1536年(天文5)の伊達家の《塵芥集(じんかいしゆう)》では,科人(とがにん)が逃げ入ったとき在所の主人も寺院もこれを保護すべからずと定めている。織田信長や豊臣秀吉もアジール廃止の方針をとり,徳川氏もこれを踏襲し,幕府は1665年(寛文5)の諸宗寺院法度によって寺院アジールを完全に否定したのである。
江戸時代,アジールはわずかに縁切寺と火元入寺の制にその名ごりをとどめた。縁切寺としては鎌倉の東慶寺と上州世良田の満徳寺の二寺のみが黙許されていたが,東慶寺は江戸時代の中期にも助命嘆願の女性を救済した例がある。離縁を願って駆け込む妻が追手に捕らわれそうになったとき草履など身につけていた物を門内に投げ入れると入寺したとみなされたが,これは駆込みと同時にアジール権が発動されたことを端的に語っている。縁切寺以外への縁切駆込み慣行も各所にみられ,修験寺,支配役所,武家屋敷,世襲名主宅など,夫の手におえぬ所へ妻が駆け込んで離縁を達成している。火元入寺すなわち火の用心を怠って出火し類焼させた火元が社会的責任を負って自発的に入寺して謹慎する慣行は,類焼者の怨恨による報復を避けるというアジール的思想に由来するものであろう。なお他人を殺害して追捕の手をのがれるべく近辺の武家屋敷に駆け込んだ武士を武士道精神にのっとってかくまい庇護する事例があるが,これはアジールとしての家の典型といえよう。
→縁切寺
執筆者:高木 侃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
犯罪人や奴隷などが過酷な侵害や報復から免れるために逃げ込んで保護を受ける場所のこと。ギリシア語のasylos(害されない、神聖不可侵の意)に由来する。国家刑罰権がまだ組織的、体系的に確立していなかった前近代では、ほとんどの社会でみられた制度である。本来この制度は、聖域に入った者に害を加える(復讐(ふくしゅう)する)ことは神を冒涜(ぼうとく)するものという原始宗教観念に基づいていた。古代ギリシアでは、神殿は虐待(ぎゃくたい)を受けた奴隷や犯罪人、債務者を保護する場所とされ、神殿に逃れて神の保護に入った者を取り戻したり、これに制裁を加えることは宗教的罪と考えられた。ユダヤ民族でも、モーゼが六つの逃遁邑(のがれのまち)を設けて、過って人を殺害した者を一定期間保護したことが伝えられている。アジールはゲルマン民族にもみられるが、古代ローマでは、専制君主政時代になった4世紀に、キリスト教会が皇帝の勅令によりアジールとして認められ、これがローマ帝国滅亡後のゲルマン人諸国家に継承された。中世の封建社会になると、教権と世俗的権力の対抗のなかでアジールの数は増加し、教会や修道院ばかりでなく、渡船場、水車小屋、領主の館(やかた)などに逃げ込んだときは私的な復讐が禁じられ、裁判で和解する手段がとられるようになった。教会はこの特権を利用して権力の拡大を図ったが、16世紀以降、絶対君主の権力が確立するに伴って、フランスでは1539年、イギリスでは1624年、ドイツでは18世紀末に消滅した。未開民族の間では今日でもこの制度がみられる。
[佐藤篤士]
日本では、古く対馬(つしま)に原始的アジールの存在したことが知られるほかは、アジールの制は鎌倉時代以後、仏教寺院において発達した。ことに室町末期ごろから戦国時代にかけて、寺院アジールの制は発達したようである。もっとも、すべての寺院がその特権を有していたわけではなく、分国の国主の菩提寺(ぼだいじ)(たとえば薩摩(さつま)の島津家の菩提寺福昌寺(ふくしょうじ))など、とくに国主と関係の深いものにこの特権が認められることが多かった。対象は主として、犯罪人と逃亡した下人(げにん)である。しかし、分国内の政治的統一が強化されるにしたがって、アジールの特権も国主などによって否定された。織田信長や豊臣(とよとみ)秀吉もこの政策を踏襲した。江戸幕府も同じ方針をとったので、江戸時代には前記の意味のアジールは一般的になくなったが、縁切寺(えんきりでら)(東慶寺、満徳寺など)の制はその名残(なごり)と考えられる。
[石井良助]
『平泉澄著『中世に於ける社寺と社会との関係』(1926・至文堂)』
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ドイツ語Asylで聖域を意味し,避難所・平和領域などとも訳される。アニミズムが支配的だった原始社会では,自然のなかの神々が宿る,また神々が出現すると考えられた森・山・河原,さらには巨木・巨石などのある空間がアジールであった。この自然のアジールはその後も継承されるが,同じ観念のもと,社会発展のなかでアジールは再生産され,神殿,寺院,王の居所,市場や,先祖の魂が宿るとされた屋敷などが不可侵の聖域とされた。中世社会ではこうしたアジールがいたるところに存在し,犯罪人・奴隷・負債人の避難所となっていたが,戦国期に入ると,アジールは俗権力によってしだいに否定・制限され,江戸時代には駆込寺(かけこみでら)・縁切寺などにその姿を残すのみとなった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…1351年(正平6∥観応2)大和の多武峰寺(とうのみねじ)は満寺の評定で,遊宴の酔狂による打擲(ちようちやく)・刃傷(にんじよう)・殺害に関して,縁者や主人が鬱憤をはらすために私に合戦することを固く禁じている。酒宴の場でおこったことは,その場に居合わせたもののみで処理するという慣習を背景にしたものとみられるが,これは酒宴の場が一種のアジールであったことを示している。後白河法皇が平氏打倒の陰謀を鹿ヶ谷での酒宴で計画し,鎌倉幕府に対する後醍醐天皇の反乱の企てが,無礼講,破礼講といわれた宴席で練られたのも,酒宴の場がアジール的な性格を備えていたからにほかならない。…
…離縁状を交付しない夫に対して,妻(側)からの離婚請求権は法律上きわめて限定されていたが,その一つに縁切寺への駆込みがあった。縁切寺はアジールの残存と考えられ,江戸時代初期尼寺には一般に縁切寺的機能があったと思われるが,中期以降になると鎌倉松ヶ岡の東慶寺と上州(群馬県)勢多郡徳川郷の満徳寺の2ヵ寺のみに限られた。両寺が江戸時代を通じて縁切寺たりえたのは,徳川家康の孫娘千姫にかかわる由緒による。…
…駆込慣行はまた武家の屋敷をも対象にしてなされており,離縁を求める女性が武家屋敷に駆け込んで希望をかなえるもの,主人の手討ち成敗から逃げ出した下僕が他家の屋敷に駆け込んで保護を求めるもの,そしてけんか闘争から他人を討ち果たした武士が近辺の武家屋敷に駆け込んで保護を求めた場合,屋敷の主は責任をもって追捕の手からこの者を守らねばならず,安全なときに安全な場所に落ち延びさせるという慣行が江戸時代を通じて広く行われていた。これらの慣行にあっては,駆込者を受け入れる寺院や屋敷に外部からの追及を遮断する力能が存在しているのであって,このような不可侵的な領域は一般にアジール(逃避所)と呼ばれ,日本の前近代社会のみならず世界各地に見られるものである。アジール【笠谷 和比古】。…
…古代朝鮮の南部に住んだ馬韓族にみられた宗教的行事。一種のアジールとも解されている。蘇塗という語が史料に初見するのは《三国志》魏志・韓伝である。…
… こうした地頭などの非法に対し,平民たちは〈権門勢家(けんもんせいか)領〉〈神社仏寺領〉などといわれ,不入の特権をもつ荘園に逃散することも多かった。とくに天皇家・摂関家領,仏神領はアジールとしての機能をもっており,下人がそこに逃亡することもしばしばあったのである。また,平民上層(名主)たちを中心に荘園・公領の支配者を通じて幕府に訴訟をおこし,地頭の非法を糾弾することも行われた。…
…辻は西洋における広場と対比されよう。【高橋 康夫】
[アジールとしての中世の辻]
《物ぐさ太郎》に〈男もつれず,輿車にも乗らぬ〉美しい女房を〈女捕(めと)〉る〈辻取(つじとり)〉は〈天下の御ゆるし〉(天下公許)といわれ,夜間に武士が道に出て往来人を無法に殺害して武術の腕を試すことを〈辻切〉(辻斬)といったように,辻はそこで行われた紛争・事件をその場のみで処理する慣習を持つ場であったと推定される。しばしば〈市町路辻〉と並記されたように,市,町,道や河原,中洲なども同じ性格を持つ場であり,やはり広場の機能を持つとともに,アジール(聖域)でもあった。…
…渡し守が棹でこぐ形式のものと,両岸に張られたロープに沿って川の流れを利用して渡河する形式のものがあった。 渡し場の法的性格はとくにアジール(平和領域)としての面にみられた。1384年オーバーエルザスのケムズの判告録には次のような記述がある。…
※「アジール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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