源顕房(読み)みなもとのあきふさ

改訂新版 世界大百科事典 「源顕房」の意味・わかりやすい解説

源顕房 (みなもとのあきふさ)
生没年:1037-94(長暦1-嘉保1)

平安後期公卿久我源氏の祖。右大臣師房の次男。母は摂政藤原道長の女尊子。25歳で蔵人頭より参議に昇り,累進して1083年(永保3)右大臣に任じ,兄俊房とともに左右の大臣を占めた。ついで86年(応徳3)女の賢子の所生堀河天皇即位するに及び,外祖父としてその勢威は兄にもまさり,一家の子弟が廟堂に列して,一時は源氏公卿が藤氏公卿の数をしのぐほど繁栄した。94年9月5日,赤痢を病んで六条邸に没した。和歌をよくし,勅撰集に14首選ばれている。桂川をはさむ鳥羽殿の対岸久我に水閣を営み,子孫はこれを中心とする久我荘を伝領して久我家(こがけ)を称し,永く繁栄して摂家に次ぐ家格の清華に列した。
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朝日日本歴史人物事典 「源顕房」の解説

源顕房

没年:嘉保1.9.5(1094.10.16)
生年:長暦1(1037)
平安後期の公卿。六条右大臣と称される。従一位。右大臣師房の次男で母は藤原道長の娘尊子。後冷泉天皇の蔵人頭を5年経験し,25歳で参議。関白藤原頼通家との親しい関係のもと順調に昇進し,永保3(1083)年兄俊房の左大臣と並んで右大臣になったことで「藤原氏にとって甚だ脅威」といわしめた。娘の賢子が藤原師実の養女として白河天皇に入り堀河天皇を生んだことで,その外祖父となり白河・堀河天皇時代(1072~1107)には兄を超え村上源氏頂点に立った。病死の報を聞いた堀河天皇は愁嘆のあまり食事に出てこなかった。歌壇でも活躍。日記に『六条右府記』(若干の逸文)がある。洛南鳥羽離宮のそばに別荘を営んだが,その地名久我(京都市伏見区)が後世,子孫(村上源氏の一流)の家名,久我家の由来となった。

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源顕房」の解説

源顕房 みなもとの-あきふさ

1037-1094 平安時代中期-後期の公卿(くぎょう)。
長暦(ちょうりゃく)元年生まれ。源師房(もろふさ)の次男。母は藤原尊子。康平4年(1061)参議。白河天皇の中宮(ちゅうぐう)藤原賢子(けんし)の実父として昇進し,永保3年(1083)右大臣にすすむ。堀河天皇の即位で外祖父となり,兄俊房をこえて村上源氏の主流の地位をしめた。従一位。六条右大臣とよばれる。寛治(かんじ)8年9月5日死去。58歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の源顕房の言及

【大山荘】より

…検田使を入れ官物・雑役を課そうとする国衙に対し,東寺はそのつど抗議して現作田の免除を獲得したが,1055年(天喜3)の雷火で五重塔が焼亡したころから寺の荒廃が著しく,大山荘もいったん廃絶した。塔が再建された86年(応徳3),執行永俊による一色別符の申請に応じて源顕房は改めて仏聖灯油料として東寺に付した。その後丹波国司高階為章は寛徳(1044‐46)以後の新立荘園としていったん収公したが,1102年(康和4)に再び立券され,為章もそれを承認した。…

※「源顕房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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