漁師町(読み)りようしまち

日本歴史地名大系 「漁師町」の解説

漁師町
りようしまち

[現在地名]洲本海岸通かいがんどおり一丁目・栄町さかえまち一丁目

下大工しもだいく町北の洲本川南岸と、その南に入り込む内湊うちみなと西岸にかけて広がる。山下さんか一八町の一でうち町のうち。洲本川南岸部は旧漁師町で、西(上流)から漁師町上ノ丁・中ノ丁・下ノ丁とよばれた。内湊東岸部は北の新漁師町二ノ丁(中ノ丁、北之丁とも)と南の新漁師町一ノ丁(南丁)に分れていた。新漁師町は元禄八年(一六九五)、湊口築地(二軒屋)普請と同時に町並ができたもので、漁師頭四二人が居住した(味地草)

漁師町
りようしまち

[現在地名]松江市東本町ひがしほんまち五丁目

新材木しんざいもく町の東に位置する町人町。猟師町とも記される。南は大橋おおはし川に臨む。北東端の京橋きようばし川沿いに松江藩の御船奉行所がある。松江城下周辺の宍道湖や大橋川などの漁業権を有していたのは末次すえつぐ白潟の両しらかたのりよう町の漁師で、末次漁師・白潟漁師と称された。末次漁師の祖先は戦国期に白鹿しらが城に尼子氏旧臣で、のち亀田かめだ(現在の城山)に居住していたが、堀尾吉晴による松江城築城に際してその居住地を提供し、代償として漁業権を付与され、年々運上銀二〇枚を納めたが、のち白潟漁師に営業権の半分を譲渡したという(宝暦一四年「末次漁師由来書差上帳写」県立図書館蔵)

漁師町
りようしまち

[現在地名]鰺ヶ沢町漁師町

西は富根ふね町、東は堀切ほりきり橋でつり町に接する。慶安(一六四八―五二)頃の絵図には漁師町が西の端になっているという(西津軽郡史)。貞享四年(一六八七)検地帳に家数五一とある。漁師町は海士あま町ともよばれ、後にここから釣町・はま町が分れたという(同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報