漆窪村(読み)うるくぼむら

日本歴史地名大系 「漆窪村」の解説

漆窪村
うるくぼむら

[現在地名]富士見村漆窪

引田ひきだ村の北に位置する。赤城山の南西麓で凹凸の坂道が多く、人家はやや南西に面している。嘉吉(一四四一―四四)から文禄(一五九二―九六)の頃までは長尾氏の領地であったと伝え、地名は天文二三年(一五五四)一〇月六日の北条家朱印状(小幡洋資氏所蔵文書)に「漆窪長尾源六郎」とみえる。村の中央に長尾氏居城(漆窪城)跡があり、字榎畑えのきはたけ北端に城主長尾大膳が長享元年(一四八七)に創立したといわれる曹洞宗の富雄山長桂ちようけい寺がある。

漆窪村
うるしくぼむら

[現在地名]高郷村みね

河沼郡野沢組に属し、同郡利田かがた村の南東、阿賀川左岸に位置する。同川を挟んで北は耶麻郡荻野おぎの村。越後街道の脇道勝負沢しようぶざわ越が通る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちに漆窪とみえ、高八三石余。寛文一〇年(一六七〇)の万覚帳(高郷村史)では高九一石余(うち新田一石余)、反別は田方二町余・畑方一三町四反余、免八ツ三分三厘五毛、家数一七(竈数二一)・人数一〇四。漆木役九五七本を負担し、新駄九を飼育する。「新編会津風土記」では家数一六。集落の南方五町ほどに周囲六町余のなが沼があり、利田村の用水にも利用されていた。文化一五年(一八一八)の村日記では高一二九石余。

漆窪村
うるしくぼむら

[現在地名]西会津町新郷富士しんごうふじ

平明へいめい村の東、富士川上流域の山間に位置し、本村の西に離れて端村向山むかいやまがある。耶麻郡大谷組に属した。北は高目たかめ村。古くは平明村の端村でしお村と称していたが、同じ耶麻郡内にもう一つ塩村があったため天正年中(一五七三―九二)漆窪と改め、またいつの頃からか平明村から分れて一村になったという(新編会津風土記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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