引田村(読み)ひけたむら

日本歴史地名大系 「引田村」の解説

引田村
ひけたむら

[現在地名]引田町引田

東北は播磨灘に面し、しろ(八二・三メートル)のある岬の北側に安戸あど浦、南側に引田浦がある。岬の先端に女郎じよろう島、沖合に毛無けなし島・通念つうねん島・まつ島が点在する。西北につばさ(一二五メートル)があり、引田浦の中央に小海おうみ川、東側に馬宿うまやど川が流入する。「和名抄」の大内おおち引田郷の遺称地。元暦二年(一一八五)二月、屋島の平家攻撃に向かった源義経は阿波勝浦に上陸し、「あくる十八日の寅の剋に、讃岐国ひけ田といふ所にうちおりて」おり(「平家物語」巻一一)、讃岐配流を解かれた紀州高野山の僧道範も建長元年(一二四九)八月八日当地に寄って帰山している(南海流浪記)。また文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」には引田からの船延べ二一艘が兵庫北関に入ったことが記され、文安元―三年の兵庫関雑船納帳(東大寺図書館蔵)によると人や木などを運ぶ引田(曳田)船延べ六七艘が入津している。明応二年(一四九三)西国歴遊に赴いた京都聖護しようご院門跡道興は一一月一九日に備前児島こじまから「ヒケタ」へ着き、「ウスイ」という在所で年を越している(「後法興院記」明応二年一二月三日条)。永禄九年(一五六六)の備中新見庄使入足日記(教王護国寺文書)には一〇月一三日から一五日までの引田浦における旅籠銭九六文とみえるなど、引田が海陸交通の要地であったことを物語る。鎌倉時代には京都浄金剛院領大内庄に含まれていた(→大内庄。「南海通記」によると室町時代、寒川氏・安富氏らは大内義興の命により中国・琉球方面と交易し巨利を得たといわれるが、引田はその一根拠地であった。天正一一年(一五八三)羽柴秀吉の臣仙石秀久が引田城に拠るが、長宗我部元親に敗れ、同一五年引田城に入った生駒親正は東偏して不便であるとして聖通寺しようつうじ(現綾歌郡宇多津町)に移ったという。引田は城下町宿場町・港町・商人町・漁村の名残をとどめている。

寛永国絵図は引田郷二千八〇六石余を構成する村として引田・馬宿・梨子木なしのき黒羽くれは河股かわまた千足せんぞく吉田よしだ瓦屋かわらや・小海・塩屋しおや坂本さかもとを記す。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳に引田浜とみえ高九七一石余、元禄八年(一六九五)一千九四石余(日下文書)。大内郡東部九ヵ村の年貢を納める郷蔵があった。小物成は寛永一九年に御菜米一四石余、松原まつばら(現白鳥町)・安戸浜の塩二二二石余(高松領小物成帳)。安政四年(一八五七)の家数九一七・人数三千五五一、家数のうち本百姓五三七・医師三・本水夫四八・賃水夫六七・漁師八五・酒屋六・大工二七・船大工二・鍛冶四・桶師一一・紺屋四など、御林二、浦番所二、狼煙二、船一九七、塩浜一四町余・釜家一二、池三六(日下文書)


引田村
ひきだむら

[現在地名]あきる野市引田

東流する秋川下流の左岸段丘上に立地、東は淵上ふちのうえ村。北は秋留あきる台地で、村のやや北寄りを五日市街道が通る。天正二年(一五七四)八月一一日の讃岐用人回状写(風土記稿)に引田とある。地内の真照しんしよう寺所蔵の明応一〇年(一五〇一)の棟札銘に「金華山真照寺 大檀那日奉宗連」とある。また天正一七年日吉山王社再興の次第を刻んだ絵馬版木銘によれば、甲斐国鶴川つるかわ(現山梨県上野原町)生れで当地の地頭志村景元は「武州多西郡引田之村、当領主日奉之朝臣平山右衛門大夫」(檜原城主)の家中であったという。田園簿に村名がみえ、田一八石余・畑二〇五石余で幕府領、ほかに真照寺領七石。


引田村
ひきだむら

[現在地名]鹿沼市引田

大芦おおあし川上流の山間に位置し、南は下沢しもざわ村、東は下遠部しもとおべ村。元亀二年(一五七一)四月九日の壬生周長官途状(高村文書)に「引田」とみえ、周長が当地における高村氏の忠功を賞して越前守の官途を与えている。さらに同年四月一七日には宮内田地を同氏に宛行っている(「壬生周長充行状」同文書)。慶安郷帳では田一九石余・畑四五八石余、幕府領、ほかに長安ちようあん寺領二石。延宝元年(一六七三)の日光山目代山口忠兵衛触書(佐八文書)に日光神領郷村として村名がみえ、元禄郷帳でも同様で幕末に至る。


引田村
ひきだむら

[現在地名]富士見村引田

横室よこむろ村の北に位置。古くは引田郷と称していたが、文禄(一五九二―九六)の頃漆窪うるくぼ村・一之木場いちのきば村と分けて三ヵ村になったと伝える。引田とは田の地形が引字に似ていたので生れた地名といわれている(郡村誌)。当地は赤城山を北東に負い、地形は高低があり小坂が多い。地区内数ヵ所に豊富な泉があるので古くから人間が住みついたらしく、石器や土器の破片が全域にわたって散在している。


引田村
ひきだむら

[現在地名]古川市引田

多田ただ川支流と鳴瀬なるせ川に挟まれた水田地帯で、昔は谷地地帯であった。北は矢目やのめ村、南は堤根つつみね村、東は新沼にいぬま(現志田郡三本木町)があり、西は加美かみ雑式目ぞうしきのめ(現中新田町)と接する。正保郷帳に田三三貫二七二文・畑六貫五一九文とあり、ほかに同所新田五六貫六六四文があり、新田開発は近世初期にほぼ完了している。「安永風土記」によれば、田八九貫六二六文・畑八貫二六七文で、蔵入は三貫九〇六文、給所は九三貫九八七文、人頭三七人、家数四五(うち借屋八)、男一一八・女八二、馬三九とある。


引田村
ひきたむら

[現在地名]大宮町若林わかばやし

部垂へたれ村より小野おの村に至る道路沿いにあり、北は菅又すがまた村。元禄郷帳に「引田村」とみえる。「水府志料」によると戸数およそ二五。天保一三年(一八四二)菅又村と合併して若林村となる。


引田村
ひきだむら

[現在地名]夷隅町引田

八乙女やおとめ村の南、夷隅川左岸に位置し、大多喜おおたき往還が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四四五石。元禄郷帳では高四五五石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数五七、幕府領と旗本益田・栗原領および与力給知。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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