中野目村(読み)なかのめむら

日本歴史地名大系 「中野目村」の解説

中野目村
なかのめむら

[現在地名]平田町中野目

三之宮さんのみや村の北にあり、南東山楯やまたて村。清浄光しようじようこう(現神奈川県藤沢市)過去帳の応永二四年(一四一七)四月一〇日没の大阿弥陀仏の裏書に「中ノ目」、也阿弥陀仏の裏書に「中目」とあることから、南北朝期当地にも時宗が伝播していたとみられる。大永六年(一五二六)肥後国阿蘇大宮司の一族阿蘇大膳満友は、当村の平民部を頼り兵乱を避けて越後から当村へ移り住んだ(「阿蘇系図」飽海郡誌)

元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一五三石余。寛永元年庄内高辻帳では高三五二石余。元和正保間石高調(飽海郡誌)に、寛永五年(一六二八)から同一三年にかけての新田高八二石余とある。


中野目村
なかのめむら

[現在地名]本荘市内越うてつ 内越

いも川東岸の平野部にあり、東に白坂しらさか山がある。東に山田やまだ村・赤田あかだ村があり、北は深沢ふかさわ(現由利郡大内町)と接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)内越郷のうちに中目村として記される。寛永二年(一六二五)の油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写に高一四九石一斗四升二合とあり、そのうち納米は八二石二升八合、免五ツ五分とある。


中野目村
なかのめむら

[現在地名]藤崎町中野目

東は水木みずき(現常盤村)、西は五林ごりん村、南は水沼みずぬま村、北は西中野目にしなかのめ村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に高六六三・〇六石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、田方八八町九反七畝二五歩、畑方一〇町二反六畝五歩、田畑屋敷合せて九九町二反四畝、村高九一〇・〇四四石、郷蔵屋敷、漆木六九本とある。元禄三年(一六九〇)には常盤組に属し、村位は中(平山日記)


中野目村
なかのめむら

[現在地名]山形市中野目

灰塚はいづか村の西に位置し、立谷たちや川と川の合流点の北東岸に立地。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高五三一石余。正保郷帳では田三六〇石余・畑一七一石余。天保一三年(一八四二)の高六七七石余(村山郡石高帳)。最上氏改易後は山形藩領、寛永二〇年幕府領、貞享二年(一六八五)山形藩領、同三年陸奥福島藩領、延享元年(一七四四)幕府領、寛政一二年(一八〇〇)高畠藩(のち天童藩)領となり、幕末に至る。


中野目村
なかのめむら

[現在地名]矢吹町中野目西なかのめにし中野目東なかのめひがし

阿武隈川西岸に位置し、北は神田かんた村、西はつつみ村。石川郡に属した。会津領から寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保二年(一七四二)越後高田藩領、文化六年(一八〇九)幕府領、天保八年(一八三七)旗本松平領、元治元年(一八六四)以降幕府領。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に中目とあり、高二三四石余。


中野目村
なかのめむら

[現在地名]水原町上中野目かみなかのめ

東はさと村、南西なか村。正保国絵図に村上藩領として村名が載る。寛文一三年(一六七三)の組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では堀越組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高七二石一斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android