改訂新版 世界大百科事典 「瀬田唐橋」の意味・わかりやすい解説
瀬田唐橋 (せたのからはし)
近江国府の南辺に至る東山道(長岡京時代以降は東海道も)が瀬田川を渡る交通の要衝に架かっていた橋。勢多(瀬田)橋(せたのはし)ともいい,《東海道名所図会》では青柳橋となっている。鎌倉時代の再建で唐様のデザインがあったらしく,以来〈唐橋〉を通称としたが,1894年(明治27)の架け替えで擬宝珠に瀬田橋(せたはし)と彫り,これを正式名称とした。伝承では景行天皇のころ,船橋が渡されたというが,信ずるに足りない。しかし記録では《日本書紀》天武1年(672)7月条に初見し,壬申の乱以前から木橋が架けられたようである。たび重なる戦火や災害のため長もちせず,なん回も架け直された。とくに京都への入路にあたるこの地では史上重要な戦いの舞台となることが多かった。672年の壬申の乱では大友皇子側はここで最後の決戦をいどみ,764年の恵美押勝の乱では孝謙上皇側がいち早く瀬田橋を焼き落としたことが戦局を大きく左右した。源平の戦い,承久の乱などでも戦場となっている。織田信長が天正年間(1573-92)に架橋した記録を彫りつけた唐金(青銅)製の親柱の擬宝珠が有名。また唐橋から眺めた琵琶湖の夕景は〈瀬田の夕照(せきしよう)〉として近江八景の一つである。現在の橋は1979年架橋されたコンクリート桁橋で,全長220m,欄干などに往時の趣が保たれている。
執筆者:栄原 永遠男+伊藤 学
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