炭屋町
すみやまち
[現在地名]南区北炭屋町・南炭屋町
長堀平右衛門町の南にある。西横堀川東側の南北に延びる町で、東は、北から長堀拾丁目・大宝寺町・松原町・周防町・南毛綿町・三津寺町に接する。西横堀川には町内からは北から御池橋・木綿橋が架けられていた。当町西側にある浜側新築地は西横堀川の天保一二年(一八四一)の川浚えの土砂によってできたもの(大阪市史)。町名は明暦元年(一六五五)に横堀炭屋町、安永七年(一七七八)に炭屋町となった。浜側が表町、その一筋東側が裏町であった(南区志)。明暦元年の大坂三郷町絵図によると空屋敷年貢を納める町の一で、開発は遅れたようである。大坂三郷南組に属し、天和元年(一六八一)には屋敷数六〇・役数七八役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は炭屋善兵衛(同年横堀炭屋町水帳「南区志」所収)。宝暦三年(一七五三)には屋敷数六三で役数は変わらず、無役分は年寄分・会所分各一役と、廻船年寄大坂屋久左衛門分一役があった(同年「横堀炭屋町水帳」中之島図書館蔵)。
炭屋町
すみやまち
[現在地名]相川町炭屋町
町部北側の濁川の川辺に位置する。南に濁川町・坂下町、西側に紙屋町が隣合せる。「佐渡相川志」によると慶長―元和(一五九六―一六二四)の頃「町々入用ノ炭売買此所ニ限レリ、依テ名トス。元和ノ末ヨリ材木町ニテ売出ス」と記し、炭座商人の町として成立。北東の下山之神町へ登る坂の中途に炭灰谷の地名があり、炭の貯蔵地であった。炭は金銀の製錬および鉱山の鍛冶炭として需要が多く、海府方面から多く運ばれ、町部北端の柴町番所を経由して当町へ運ばれた。元禄七年(一六九四)の相川町中畑屋舗御検地水帳(相川郷土博物館蔵)では畑屋敷二反余、家数二七軒。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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