日本歴史地名大系 「烏山城跡」の解説
烏山城跡
からすやまじようあと
〔中世〕
康永元年(一三四二)一〇月一六日付の法眼宣宗書状写(結城古文書写)に「鴉山城」とみえ、北朝方の城であったが、すでに落城していた。なお興国二年(一三四一)三月二四日、北畠顕信は那須「彼山」付近のことは十分に手段を尽すようにと結城白川修理権大夫に伝えているが(「北畠顕信御教書」結城文書)、彼山は烏山のことと考えられる。「那須記」によれば応永二一年頃、那須資之と弟沢村資重は不和となり、資重は
永禄三年(一五六〇)葦名盛氏との合戦後、大関氏・武茂氏ら上庄の諸将は那須氏から離反し、以後佐竹氏や宇都宮氏と結んで烏山を攻めることとなる(那須記)。同九年佐竹義重の陣代東義堅は宇都宮・大関勢とともに西方
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報