烏山城跡(読み)からすやまじようあと

日本歴史地名大系 「烏山城跡」の解説

烏山城跡
からすやまじようあと

[現在地名]烏山町城山・中央一―三丁目

烏山町中心街の北西部、標高二〇二メートル・比高一〇〇メートルの八高はつこう山の主峰頂と、それに連なる丘陵斜面を利用した複郭式の山城。下那須氏初代資重により応永二五年(一四一八)構築されたと伝え、臥牛がぎゆう城とも称した。主要部分は五城三郭とよばれ古本丸・本丸・北城・平城・西城の五城と若狭郭・常盤郭(近世の二の丸)・大野郭の三郭からなる。江戸時代には烏山藩の政庁が置かれた。

〔中世〕

康永元年(一三四二)一〇月一六日付の法眼宣宗書状写(結城古文書写)に「鴉山城」とみえ、北朝方の城であったが、すでに落城していた。なお興国二年(一三四一)三月二四日、北畠顕信は那須「彼山」付近のことは十分に手段を尽すようにと結城白川修理権大夫に伝えているが(「北畠顕信御教書」結城文書)、彼山は烏山のことと考えられる。「那須記」によれば応永二一年頃、那須資之と弟沢村資重は不和となり、資重は沢村さわむら(現矢板市)を退き下境の稲積しもざかいのいなづみ城に移った。以後那須氏は上那須(上庄)・下那須(下庄)の二流に分れて相争うようになる。資重は稲積城が平城で危険であるため、烏山の高山が要害堅固であることに着目、同二四年二月より翌年一月までかかって当城を築いたという。永正一三年(一五一六)上庄の那須氏の内紛により下庄の当城主那須資房が両流を併せている(那須譜見聞録)。しかし下那須氏も政資・高資父子の間で内紛が起こり、天文八年(一五三九)九月下旬から一〇月半ば頃まで佐竹・小田・宇都宮氏などが政資支援のため、子高資の守る烏山付近へ押寄せている(一〇月一八日付「小山高朝書状」白川文書)

永禄三年(一五六〇)葦名盛氏との合戦後、大関氏・武茂氏ら上庄の諸将は那須氏から離反し、以後佐竹氏や宇都宮氏と結んで烏山を攻めることとなる(那須記)。同九年佐竹義重の陣代東義堅は宇都宮・大関勢とともに西方神長かなが治部内じぶうち山辺りに陣を取り那須資胤兄弟と戦ったが、資胤方の勝利となった。同一〇年上庄勢の催促により出陣した佐竹義重の陣代長倉氏らは、下境大崖おおがけ山の麓に陣を取ったが、霖雨で増水した中川を渡って急襲した那須勢のために敗れている(「関八州古戦録」など)。「那須記」などによれば、その後も佐竹・上庄の諸氏の連合勢はたびたび当城へ攻め寄せているが、那須氏はよくこれを防いでいる。なお、永禄一三年五月一一日佐竹義重は「烏山宿」の根小屋を残らず打散らしており(五月二七日付「佐竹義重書状写」秋田藩家蔵文書)、戦国期には城下に町場が形成されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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