日本歴史地名大系 「熊村」の解説 熊村くまむら 大分県:宇佐市旧駅川町地区熊村[現在地名]宇佐市熊、宇佐郡安心院(あじむ)町熊正覚寺(しようがくじ)村の南の山間に位置する。東は平(ひら)ヶ倉(くら)村(現安心院町)、南は佐田(さだ)村(現同上)。村の中ほどにある泣別(なきわかれ)峠が分水嶺となっていて、北側は寄藻(よりも)川、南側は佐田(さだ)川の水系である。同峠を越える豊前道(佐田往還)が南北に貫く。同道は宇佐宮の神事行幸会の道筋でもあった。天正一五年(一五八七)黒田孝高領、慶長五年(一六〇〇)中津藩領となるが、元和六年(一六二〇)中津藩主細川氏が主城を豊前小倉に移したために小倉藩領となり、寛永九年(一六三二)龍王藩領、正保二年(一六四五)幕府領となって、寛文九年(一六六九)肥前島原藩領となる。 熊村くまむら 静岡県:天竜市熊村[現在地名]天竜市熊嶺神沢(みねかんざわ)・上神沢(かみかんざわ)・大栗安(おおぐりやす)・阿寺(あてら)・東藤平(ひがしふじだいら)五ヵ村の北に位置し、西部は阿多古(あたご)川源流域、東部は天竜川支流の横山(よこやま)川の源流域に立地する山間村。三河との国境に位置する。秋葉山(現春野町)、鳳来(ほうらい)寺(現愛知県鳳来町)へ向かう道が通る。寛正三年(一四六二)一〇月二四日の鰐口銘(阿弥陀堂蔵)に「豊田郡熊村内峰真福寺」とみえ、当村真福寺に鰐口が奉納されている。明応五年(一四九六)の棟札銘(懐山のおこない)には「豊田郡西手内熊村石打」とみえる。 熊村くまむら 愛知県:刈谷市熊村[現在地名]刈谷市熊野(くまの)町・八幡(はちまん)町・逢妻(あいづま)町・神明(しんめい)町・宝(たから)町刈谷城の北に位置する。東は小山(おやま)村、西は逢妻川・境(さかい)川をもって尾州村木(むらき)村(現知多郡東浦町)と境する。逢妻川に沿う低地は近世に開かれた新田で、村は台地上にある。むかし八幡山に数戸あり、紀伊の人専光坊舟行が熊野神を奉持して海路この地に来り、祠を造って祀ったところから熊野村と称したが、のち野の字を省いて熊村とよぶようになったと伝える(刈谷町誌)。 熊村くまむら 福島県:双葉郡大熊町熊村[現在地名]大熊町熊熊川右岸にあり、北の対岸は熊川(くまがわ)村・佐山(さやま)村、南は楢葉(ならは)郡大菅(おおすげ)村(現富岡町)。「常陸国風土記」の記す古代の多珂(たか)国の北境である「苦麻の村」は当地周辺をさすといわれる。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「廿弐貫三百九拾文 熊右衛門尉」がみえ、熊越後守重清は検地代官でもあった。熊氏は熊川氏の分流で、中世以来この地を所領としていた(相馬藩政史)。正保郷帳では田方二九七石余・畑方一〇一石余。元禄郷帳では熊村は高四二二石余、松下(まつした)新田は高四四九石余、中野内(なかのうち)新田は高二四九石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by