牛沢村(読み)うしざわむら

日本歴史地名大系 「牛沢村」の解説

牛沢村
うしざわむら

[現在地名]会津坂下町牛川うしかわ

田沢たざわ川右岸にあり、北は蛭川ひるかわ村、東は出鶴沼いづるま川を隔てて大江おおえ村。西に端村の西牛沢がある。伝説の多い村で、大同三年(八〇八)徳一が高寺山恵隆えりゆう寺を再興した時の高寺たかてら三六坊の一つ大徳だいとく坊があり、のちに大徳寺になったと伝える。康保年間(九六四―九六八)空也が牛に乗ってこの村に来たとき牛が石に化したので、赤沢と称していたのを牛沢に改称したという。空也の供養した花立はなたて山、空也の名付けた無明むみよう橋、空也の築いた経塚の伝説がある。「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「牛沢葉林矢鏑流馬者年かへ」とある。観応三年(一三五二)五月二一日の真壁政代薄景教軍忠状(真壁文書)に「会津郡所々城合戦仕了、河沼郡金河浜崎城、次蜷河庄政所楯、至同牛沢城堤次郎左衛門尉討治之時」とあり、勝方かちがた村の地頭真壁政の代官薄景教は正月五日から三浦若狭守に属して各地に転戦、牛沢城主堤次郎左衛門尉を攻め滅ぼした。


牛沢村
うしざわむら

[現在地名]太田市牛沢

富沢とみざわ村の南にある。西・南境を石田いしだ川が南東流し、村の中央を南流するへび川を合せる。南は武蔵国幡羅はたら小島こじま(現埼玉県大里郡妻沼町)、西は備前島びぜんじま(現新田郡尾島町)西北米沢よねざわ村、東は高林たかはやし村。さかい小泉こいずみ往還が東西に走り、太田町と小島村を南北に結ぶ里道が交差する。嘉応二年(一一七〇)新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「東牛沢 田十一町三十たい 畠一町たい 在家九う」「西牛沢郷 田九反廿五たい 畠三丁廿たい さいけ六う」とみえる。年未詳七月日付(写本は文永三年と振る)の新田庄内大島六郷注文(正木文書)によると、新田につた庄内大島おおしま六郷のうちとして「東牛沢郷」がみえ、里見系の所領であったと思われる。


牛沢村
うしざわむら

[現在地名]桑折町松原まつばら

松原村の南に位置寛文(一六六一―七三)の頃に成立したと考えられる。古高新高帳に村名がみえ、米沢藩領時代の古高二四一石余、幕府検地による新高二四六石余。貞享三年(一六八六)幕府領から福島藩領となったが、元禄一三年(一七〇〇)幕府領に復する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

ビャンビャン麺

小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...

ビャンビャン麺の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android