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空也 くうや

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

空也
くうや

[生]延喜3(903)
[没]天禄3(972)
平安時代の僧。こうや上人,光勝,市聖 (いちのひじり) ,阿弥陀聖などとも呼ばれる。時宗の一遍は空也を「わが先達」として敬慕した。比叡山を中心に行われたいわゆる「山の念仏」に対し,一般庶民のなかに埋没しつつ,念仏を広めた。

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デジタル大辞泉の解説

くうや【空也】

[903~972]平安中期の僧。空也念仏の祖。生地・出自など未詳。諸国を巡歴して南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)を唱え、教化(きょうけ)に努めながら道・橋・寺などを造り、市(いち)の聖(ひじり)阿弥陀聖(あみだひじり)とよばれた。京都に西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立。光勝(こうしょう)。こうや。→空也忌

こうや【空也】

くうや(空也)

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百科事典マイペディアの解説

空也【くうや】

平安中期の僧。弘也(こうや)とも。市聖(いちのひじり),阿弥陀聖と称された。浄土教の先駆者。出身地不詳,皇孫とも伝える。諸国を遊歴し924年尾張(おわり)国分寺で出家。
→関連項目康勝称名念仏念仏

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

空也 こうや

くうや

空也 くうや

903-972 平安時代中期の僧。
延喜(えんぎ)3年生まれ。尾張(おわり)(愛知県)の国分寺で出家。諸国をめぐり,阿弥陀(あみだ)念仏をとなえ,橋をかけ,井戸をほるなどの社会事業をおこなう。天慶(てんぎょう)元年から京都市中で庶民に念仏と浄土信仰を説き,市聖(いちのひじり),市上人,阿弥陀聖などとよばれる。天暦(てんりゃく)2年比叡山で受戒し,貴族層にまで布教を拡大した。応和年間に西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立。天禄3年9月11日死去。70歳。法名は別に光勝。「こうや」ともよみ,弘也ともかく。
【格言など】忍辱(にんにく)の衣厚ければ,杖木瓦石(じょうもくがせき)を痛しとせず(「一遍上人語録」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

空也

没年:天禄3.9.11(972.10.20)
生年:延喜3(903)
平安中期の浄土教の民間布教僧。弘也ともいう。市聖,阿弥陀聖,市上人とも呼ばれ,庶民を中心に阿弥陀信仰と念仏を広めた。醍醐天皇の子,または仁明天皇皇子常康親王の子との説もあったが,自らは父母や郷土を語らずまた著作を残さなかったため,詳しい経歴は不明である。同時代の文人貴族の書いた源為憲『空也誄』,慶滋保胤日本往生極楽記』などの伝記によれば,幼少から当時少なくなかった聖のひとりとして活動していた。全国を遍歴し山林修行をするかたわら,道や橋を整備して人馬の交通の便を改善し,東西2京に井戸を掘削して阿弥陀井と名付けた。また荒野の野ざらしの死骸を集めて火葬にし,阿弥陀仏の名を唱えたという。二十余歳で尾張(愛知県)国分寺で出家し自ら空也と名乗り,さらに播磨(兵庫県),四国で修行し,奥羽方面にも布教した。 36歳の天慶1(938)年になると京都の市中で念仏を広め始め,その活動の場の中心が地方から都市へと変化した。46歳の天暦2(948)年に比叡山で天台座主延昌から受戒し,光勝の戒名を受けたが,自らは沙弥時代の空也を自称し続けた。ただしその布教対象は庶民だけではなく貴族層にも拡大し,多くの人々から寄付を募り,京都の疫病を鎮めるために同5年には金色の1丈の十一面観音像,6尺の梵天・帝釈天四天王像の造像を行った。また金泥『大般若経』600巻の書写事業をまる13年かけて応和3(963)年に完成させた。このとき,賀茂川の西に造った宝塔で,左大臣藤原実頼以下の参加のもと盛大な供養が行われた。この地が東山の西光寺とされ,ここで死没した。この寺はのちに六波羅蜜寺と名付けられた。鹿杖をもち鉦を叩きながら念仏をとなえる空也の口から6体の阿弥陀仏が出ている姿を形作った鎌倉時代の仏師康勝作の空也像(六波羅蜜寺蔵)は有名であるが,このように没後も聖集団によって,空也念仏ともいわれた踊念仏・鉢叩きの祖と仰がれ,様々な伝承が伝えられた。一遍などの活動にも影響を与えた。<参考文献>堀一郎『空也』

(勝浦令子)

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世界大百科事典 第2版の解説

くうや【空也】

903‐972(延喜3‐天禄3)
平安中期,民間の浄土教の祖ともいうべき僧。弘也(こうや)ともいい,市聖(いちのひじり),阿弥陀聖,市上人(いちのしようにん)などと呼ばれた。民間布教僧として活動した空也は,みずからの経歴や思想について記述を残さなかったので,その生涯は不明の部分が多い。しかし,空也の活動は,同時代の文人貴族の注目する所となり,源為憲は《空也誄(るい)》を作ってその序に生涯の事跡を記し,慶滋保胤(よししげのやすたね)は《日本往生極楽記》の中に空也の伝を入れた。

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大辞林 第三版の解説

くうや【空也】

903~972) 〔「こうや」とも〕 平安中期の僧。天台宗空也派の祖。皇族の出とする説もあるが不明。常に市中に立って庶民に念仏をすすめ、貴賤きせんを問わず幅広い帰依者を得て、阿弥陀の聖・市の聖と尊称された。諸国を巡って、道路をひらき橋を架けるなど社会事業に尽くした。京都に疫病が流行したときに西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立して、平癒を祈った。光勝。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

空也
くうや
(903―972)

「こうや」ともいい、弘也とも書く。平安中期の代表的庶民宗教者。僧名は光勝(こうしょう)。出自については不明であるが、皇統から出たという説がある。若いころから優婆塞(うばそく)として諸国を巡歴し、20歳余のとき尾張(おわり)(愛知県)の国分寺で剃髪(ていはつ)、自ら空也を名のったという。遊行(ゆぎょう)中、彼は、険しい道路を平らげ、橋を架け、井戸を掘り、荒野に風葬死者があれば火葬に付して、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の名号(みょうごう)を唱えて葬った。また絶えずこの名号を唱えていたので俗に阿弥陀聖(ひじり)といわれ、掘った井戸は阿弥陀井とよばれた。938年(天慶1)京都に入ったが、町中を遊行して乞食(こつじき)し、布施(ふせ)を得れば貧者や病人に施したと伝える。948年(天暦2)比叡山(ひえいざん)に上り、天台座主(ざす)延昌(えんしょう)について得度。光勝という僧名をもらったが、自らは空也の沙弥(しゃみ)名を名のり、庶民信仰の念仏を勧める聖(ひじり)であった。平安時代以降、貴賤(きせん)老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のおかげであるといわれ、また東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された。空也は生存時から市聖(いちのひじり)ともよばれたが、これは人の集まりやすい京都の東市、西市の市門に立って人々に念仏と浄土信仰を勧めたからである。その市門には「極楽(ごくらく)ははるけきほどと聞きしかど、つとめて(瞬時に)いたる所なりけり」と書きつけて、速疾往生(そくしつおうじょう)を説いた。そして念仏を広める運動として踊念仏(おどりねんぶつ)をしたので、後世、一遍(いっぺん)と時衆(じしゅう)の踊念仏も空也を祖とする。このように浄土往生の念仏を勧める一方、950年(天暦4)人々から浄財を集めて、1丈の観音(かんのん)像、6尺の梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・四天王の像を造立した。また金泥(こんでい)の『大般若経(だいはんにゃきょう)』1部600巻の書写を発願、13年間かかって963年(応和3)に完成し、賀茂川の東に西光(さいこう)寺(後の六波羅蜜寺(ろくはらみつじ))を建て、『大般若経』の書写供養を行うなど多角的な仏教を広めた。天禄(てんろく)3年9月11日入滅(にゅうめつ)。空也の名声は生存時から高かったとみえて、当時の貴族・文人との交遊を示す六波羅蜜寺供花会(くげえ)の詩文が残っている。
 空也の遊行のありさまは絵画や彫刻に残っているように、短い衣を脛高(はぎだか)に着て草鞋(わらじ)を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持っていた。空也の意志を継ぐ遊行聖もこの姿であったので、彼らは阿弥陀聖とも鉦打(かねうち)とも鉢叩(はちたたき)ともよばれ、各地に空也を祀(まつ)る空也堂を建てて空也僧集団を形成した。のち空也堂が空也の墓といわれたために、全国各地に空也の墓と称するものが多数ある。しかし空也入滅後に書かれた『空也誄(くうやるい)』(1巻、源為憲(ためのり)作)によって、その墓が西光寺にあることは否定できない。[五来 重]
『堀一郎著『空也』(1963・吉川弘文館) ▽名畑崇著『天台宗と浄土教――空也をめぐって』(『日本浄土教史の研究』所収・1969・平楽寺書店)』

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世界大百科事典内の空也の言及

【念仏】より

…のちに不断念仏は命終のときに修されるようになり,臨終儀礼ともなった。平安中期に空也や源信が出るにおよんで,称名念仏はいっそう盛んとなった。空也は民間に念仏を広め,民間仏教史上に大きな足跡を残したが,その念仏は鎮魂呪術的な性格と機能をもったものとして民間に受容された。…

【六波羅蜜寺】より

…寺域は京都の葬送地鳥辺野の入口で〈六道(ろくどう)の辻〉と呼ばれた地点にあり,古来葬送と死者追善の寺として庶民の信仰を集めてきた。963年(応和3)空也の建立で,当初は西光寺と称し,十一面観音像と脇士の二王・四王像を造立安置したという。977年(貞元2)中信が堂舎を修造し,寺号を六波羅蜜寺と改めて天台別院とし,法華八講や念仏を修して貴賤の信仰を集め,迎講(むかえこう)や地蔵講を行い,以後京都の諸人が講を行う寺として親しまれた。…

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