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徳一 とくいつ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徳一
とくいつ

[生]天平勝宝1(749)
[没]天長1(824)?
平安時代初期の法相宗の僧,筑波山開祖藤原仲麻呂の子。法相修円に学び東大寺に住んだが,のち東国に流された。弊衣粗食に甘んじ,常に頭陀行を行なった。筑波山に中禅寺を建て,会津に慧日寺を開いた。権実 (方便の法と真実の法) について最澄としばしば論争した。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

徳一

749年ごろ~没年不詳。藤原仲麻呂(恵美押勝)の子との説もある。東大寺や興福寺で学び、若くして修行の地を求め東国へ。806年の磐梯山の噴火後、ふもとに慧日寺(現・恵日寺)を開くなど、会津に仏教文化を根付かせた。

(2015-11-11 朝日新聞 朝刊 奈良1・1地方)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳一 とくいつ

760?-840? 奈良-平安時代前期の僧。
天平宝字(てんぴょうほうじ)4年?生まれ。藤原仲麻呂の子といわれる。奈良で法相(ほっそう)をまなび,20歳ごろ東国へいく。常陸(ひたち)中禅寺,陸奥(むつ)会津の慧日寺などをひらき,徳一菩薩(ぼさつ)とよばれた。弘仁(こうにん)6年ごろ「真言宗未決文」をかき,空海に密教への疑問を呈した。8年ごろから最澄と「三一権実(さんいちごんじつ)論争」をおこなった。承和(じょうわ)7年?死去。81歳? 法名は徳溢,得一とも。

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳一

生年:生没年不詳
平安初期の僧。藤原仲麻呂の子とも伝える。興福寺で修円に法相宗を学び,次いで東大寺に住したという。のち関東に移り,常陸国(茨城県)筑波山の中禅寺や会津の慧日寺など多数の寺院を創建した。空海に対し『真言宗未決文』を著して真言教学に関する11の疑義を提し,また弘仁8(817)年東国への布教を志す最澄に対して論争を挑んだ。すなわち,天台宗を開創した最澄がすべての衆生に等しく仏性があるとする法華一乗の思想を説いたのに対し,徳一は法相の五性各別の立場で三乗論を主張し,いゆゆる三一権実論争が繰り広げられた。徳一は『仏性抄』『中辺義鏡』『遮異見抄』『慧日羽足』などを著し,最澄もまた『照権実鏡』や『守護国界章』を著して反論した。慧日寺で没したと伝え,同寺に徳一の廟がある。東国への教線の拡大を企図する最澄に対し,徳一は教学の論争を挑んでその前に立ちはだかった旧仏教側の論客であった。<参考文献>高橋富雄『徳一と最澄―もう一つの正統仏教―』

(本郷真紹)

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世界大百科事典 第2版の解説

とくいち【徳一】

平安初期の法相(ほつそう)宗の学僧。徳壱,徳溢,得一とも書く。生没年不詳。藤原仲麻呂の子と伝えるが,確証はない。興福寺の修円(しゆえん)から法相を学んだというが,これも年齢的にみて疑わしい。東大寺に住した後,若くして都を去り,東国に移った。常陸国の筑波山に中禅寺を開き,また陸奥国の会津に慧日(えにち)寺(現,恵日寺)を創建した。僧侶の奢侈をにくんでみずから粗衣粗食し,民衆教化にも力を尽くして大いに尊ばれ,菩薩とたたえられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徳一
とくいつ

生没年不詳。平安初期の法相(ほっそう)宗の僧。生存時代については諸説あるが、760年(天平宝字4)ころから840年(承和7)ころとみられる。後の伝記では藤原仲麻呂(なかまろ)の子とされている。奈良で法相宗を学び20歳ころ東国へ移って会津に住み、常陸(ひたち)(茨城県)筑波(つくば)山に中禅寺を、会津磐梯山麓(ばんだいさんろく)に恵日(えにち)寺をつくったとされる。空海は815年(弘仁6)弟子康守(こうしゅ)を徳一のもとに派遣して香を贈り、真言(しんごん)の写経を依頼している。徳一は、新しい真言宗への疑問11か条を記した『真言宗未決文』を著したが、のちこの書に多くの反論が出されている。また817年ころから約5年間にわたり、天台と法相の教義および一乗と三乗の思想をめぐって最澄(さいちょう)と論争〔いわゆる三一権実(さんいちごんじつ)論争〕を行い、法相宗学・三乗思想の立場にたって、最澄の天台教学・一乗思想を批判し、『仏性抄』1巻、『中辺義鏡(ちゅうへんぎきょう)』3巻、『遮異見章(しゃいけんしょう)』3巻、『恵日羽足(えにちうそく)』3巻、『中辺義鏡残』20巻などを著した。会津の恵日寺に徳一廟(びょう)があり、徳一開創と伝える勝常寺〔福島県河沼(かわぬま)郡〕には平安初期の優れた仏像がある。創立寺院と伝えられるもの約30か寺、著書名17種が伝えられている。[田村晃祐]

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世界大百科事典内の徳一の言及

【円蔵寺】より

…日本三虚空蔵の第一。法相宗の碩学徳一(とくいち)が大同年間(806‐810)に開いたという古刹。徳一は会津を拠点とし,最澄との激しい論争で知られた名僧で,福島地方には恵日(えにち)寺をはじめ徳一の開基を伝える寺が少なくない。…

【最澄】より

…関東では最澄にゆかりの深い鑑真の高弟道忠(どうちゆう)の遺弟(ゆいてい)らがいる上野の緑野(みとの)寺(浄土院)や下野の小野寺(大慈院)を拠点に伝道を展開した。会津にいた法相(ほつそう)宗の学僧徳一(とくいち)との間に,三一権実(さんいちごんじつ)の論争が始まったのは,この関東滞在中のことである。徳一が《仏性抄(ぶつしようしよう)》を著して最澄を論難したのに対し,最澄は《照権実鏡(しようごんじつきよう)》を書いて反駁した。…

【磐梯山】より

…ただし修験道の道場としては吾妻山も含む山々にまたがって展開されており,磐梯山はその一画を占めてきたとみられる。そのなかで磐梯山をきわだたせたのは,徳一の開基と伝える慧日(えにち)寺(現,恵日寺)の存在である。一時,子院3800坊,寺僧300人,僧兵数千人,寺領18万石の勢力を誇ったとも称され,その繁栄ぶりは永正8年(1511)銘のある絹本著色《恵日寺絵図》の伽藍配置や遺物などから知られるが,1589年(天正17)伊達政宗の会津侵攻によって炎上,その後再建されたものの,かつての隆盛を再現することはなかった。…

【藤原刷雄】より

…なお《唐大和上東征伝》には鑑真の死を悼む刷雄の詩が撰者の淡海三船らの詩とともにあり,また《経国集》によって刷雄,三船に早くから親交のあったことが知られるので,刷雄は754年の鑑真一行の来日に同行して訳語として活躍し,さらに武智麻呂の伝記も書いた僧延慶と同一人かとする説がある。薩雄(ひろお),あるいは徳一と同一人とする説もあるが,これは謬説であろう。【岸 俊男】。…

※「徳一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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