徳一(読み)トクイツ

デジタル大辞泉 「徳一」の意味・読み・例文・類語

とくいつ【徳一】

平安初期の法相ほっそうの僧。徳溢・得一とも書いた。藤原仲麻呂の子といわれる。東大寺に住んだのち東国に移り、筑波山中禅寺会津慧日寺を開いて布教法華一乗を唱える最澄と再三にわたって論争した。著「中辺義鏡」。生没年未詳。

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共同通信ニュース用語解説 「徳一」の解説

徳一

徳一とくいち 奈良時代から平安時代前期にかけて活動した法相宗僧侶奈良で学んだ後、磐梯山慧日えにち寺、筑波山に中禅寺を開いたほか東日本に数多くの寺を創建した。どのような人も最終的には仏の悟りを得られると主張する天台宗の開祖の最澄に対し、悟りには段階がありすべての人が成仏できるわけではないと反論した論争で知られる。

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精選版 日本国語大辞典 「徳一」の意味・読み・例文・類語

とくいつ【徳一】

  1. 平安初期の法相宗の僧。徳溢・得一とも書く。藤原仲麻呂の子といわれる。興福寺修円に学び、東大寺に住したが、のち東国に流され、筑波山に中禅寺、会津に慧日寺を開創。三乗真実一乗方便の説を立てて最澄の法華一乗の説を厳しく批判したことは有名。著に「中辺義鏡残」「法相了義燈」など。生没年不詳。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳一」の意味・わかりやすい解説

徳一
とくいつ

生没年不詳。平安初期の法相(ほっそう)宗の僧。生存時代については諸説あるが、760年(天平宝字4)ころから840年(承和7)ころとみられる。後の伝記では藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の子とされている。奈良で法相宗を学び20歳ころ東国へ移って会津(あいづ)に住み、常陸(ひたち)(茨城県)筑波(つくば)山に中禅寺を、会津磐梯山麓(ばんだいさんろく)に恵日(えにち)寺をつくったとされる。空海は815年(弘仁6)弟子康守(こうしゅ)を徳一のもとに派遣して香を贈り、真言(しんごん)の写経を依頼している。徳一は、新しい真言宗への疑問11か条を記した『真言宗未決文』を著したが、のちこの書に多くの反論が出されている。また817年ころから約5年間にわたり、天台と法相の教義および一乗と三乗の思想をめぐって最澄(さいちょう)と論争(いわゆる三一権実(さんいちごんじつ)論争)を行い、法相宗学・三乗思想の立場にたって、最澄の天台教学・一乗思想を批判し、『仏性抄』1巻、『中辺義鏡(ちゅうへんぎきょう)』3巻、『遮異見章(しゃいけんしょう)』3巻、『恵日羽足(えにちうそく)』3巻、『中辺義鏡残』20巻などを著した。会津の恵日寺に徳一廟(びょう)があり、徳一開創と伝える勝常寺(福島県河沼(かわぬま)郡)には平安初期の優れた仏像がある。創立寺院と伝えられるもの約30か寺、著書名17種が伝えられている。

[田村晃祐 2017年9月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「徳一」の意味・わかりやすい解説

徳一 (とくいち)

平安初期の法相(ほつそう)宗の学僧。徳壱,徳溢,得一とも書く。生没年不詳。藤原仲麻呂の子と伝えるが,確証はない。興福寺の修円(しゆえん)から法相を学んだというが,これも年齢的にみて疑わしい。東大寺に住した後,若くして都を去り,東国に移った。常陸国の筑波山に中禅寺を開き,また陸奥国の会津に慧日(えにち)寺(現,恵日寺)を創建した。僧侶の奢侈をにくんでみずから粗衣粗食し,民衆教化にも力を尽くして大いに尊ばれ,菩薩とたたえられた。817年(弘仁8)から21年にかけて最澄との間でおこなった〈三一権実(さんいちごんじつ)論争〉では,《仏性抄(ぶつしようしよう)》《中辺義鏡》《慧日羽足(うそく)》《遮異見章》などを著し,天台宗の教学を批判した。空海も,徳一に手紙を送って密教経典の書写に協力をもとめており,東国の辺境にあって,平安新仏教に対抗しうる学徳ともに優れた人物であったといえる。著書は,上記のほか《法華新疏》など多数あったが,密教に疑問を呈した《真言宗未決》が存するのみである。
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朝日日本歴史人物事典 「徳一」の解説

徳一

生年:生没年不詳
平安初期の僧。藤原仲麻呂の子とも伝える。興福寺で修円に法相宗を学び,次いで東大寺に住したという。のち関東に移り,常陸国(茨城県)筑波山の中禅寺や会津の慧日寺など多数の寺院を創建した。空海に対し『真言宗未決文』を著して真言教学に関する11の疑義を提し,また弘仁8(817)年東国への布教を志す最澄に対して論争を挑んだ。すなわち,天台宗を開創した最澄がすべての衆生に等しく仏性があるとする法華一乗の思想を説いたのに対し,徳一は法相の五性各別の立場で三乗論を主張し,いゆゆる三一権実論争が繰り広げられた。徳一は『仏性抄』『中辺義鏡』『遮異見抄』『慧日羽足』などを著し,最澄もまた『照権実鏡』や『守護国界章』を著して反論した。慧日寺で没したと伝え,同寺に徳一の廟がある。東国への教線の拡大を企図する最澄に対し,徳一は教学の論争を挑んでその前に立ちはだかった旧仏教側の論客であった。<参考文献>高橋富雄『徳一と最澄―もう一つの正統仏教―』

(本郷真紹)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳一」の解説

徳一
とくいつ

760?~835?

徳溢・得一とも。平安前期の法相(ほっそう)宗僧。藤原仲麻呂(なかまろ)の子と伝える。はじめ東大寺で修円(しゅえん)らに学んだとされ,20歳頃東国へ移る。815年(弘仁6)空海から真言密教典籍の書写・布教を依頼されるが,これに対して真言密教への疑義「真言宗未決文」を送る。また天台教学に対して「仏性抄」を皮切りに批判を加え,817年頃から最澄(さいちょう)との間に三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)を展開した。この間,会津恵日(えにち)寺や筑波山中禅寺など東国に多くの寺を開いたと伝える。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳一」の解説

徳一 とくいつ

760?-840? 奈良-平安時代前期の僧。
天平宝字(てんぴょうほうじ)4年?生まれ。藤原仲麻呂の子といわれる。奈良で法相(ほっそう)をまなび,20歳ごろ東国へいく。常陸(ひたち)中禅寺,陸奥(むつ)会津の慧日寺などをひらき,徳一菩薩(ぼさつ)とよばれた。弘仁(こうにん)6年ごろ「真言宗未決文」をかき,空海に密教への疑問を呈した。8年ごろから最澄と「三一権実(さんいちごんじつ)論争」をおこなった。承和(じょうわ)7年?死去。81歳? 法名は徳溢,得一とも。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳一」の意味・わかりやすい解説

徳一
とくいつ

[生]天平勝宝1(749)
[没]天長1(824)?
平安時代初期の法相宗の僧,筑波山の開祖。藤原仲麻呂の子。法相を修円に学び東大寺に住んだが,のち東国に流された。弊衣粗食に甘んじ,常に頭陀行を行なった。筑波山に中禅寺を建て,会津に慧日寺を開いた。権実 (方便の法と真実の法) について最澄としばしば論争した。

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世界大百科事典(旧版)内の徳一の言及

【円蔵寺】より

…日本三虚空蔵の第一。法相宗の碩学徳一(とくいち)が大同年間(806‐810)に開いたという古刹。徳一は会津を拠点とし,最澄との激しい論争で知られた名僧で,福島地方には恵日(えにち)寺をはじめ徳一の開基を伝える寺が少なくない。…

【最澄】より

…関東では最澄にゆかりの深い鑑真の高弟道忠(どうちゆう)の遺弟(ゆいてい)らがいる上野の緑野(みとの)寺(浄土院)や下野の小野寺(大慈院)を拠点に伝道を展開した。会津にいた法相(ほつそう)宗の学僧徳一(とくいち)との間に,三一権実(さんいちごんじつ)の論争が始まったのは,この関東滞在中のことである。徳一が《仏性抄(ぶつしようしよう)》を著して最澄を論難したのに対し,最澄は《照権実鏡(しようごんじつきよう)》を書いて反駁した。…

【磐梯山】より

…ただし修験道の道場としては吾妻山も含む山々にまたがって展開されており,磐梯山はその一画を占めてきたとみられる。そのなかで磐梯山をきわだたせたのは,徳一の開基と伝える慧日(えにち)寺(現,恵日寺)の存在である。一時,子院3800坊,寺僧300人,僧兵数千人,寺領18万石の勢力を誇ったとも称され,その繁栄ぶりは永正8年(1511)銘のある絹本著色《恵日寺絵図》の伽藍配置や遺物などから知られるが,1589年(天正17)伊達政宗の会津侵攻によって炎上,その後再建されたものの,かつての隆盛を再現することはなかった。…

【藤原刷雄】より

…なお《唐大和上東征伝》には鑑真の死を悼む刷雄の詩が撰者の淡海三船らの詩とともにあり,また《経国集》によって刷雄,三船に早くから親交のあったことが知られるので,刷雄は754年の鑑真一行の来日に同行して訳語として活躍し,さらに武智麻呂の伝記も書いた僧延慶と同一人かとする説がある。薩雄(ひろお),あるいは徳一と同一人とする説もあるが,これは謬説であろう。【岸 俊男】。…

※「徳一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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