牧志朝忠(読み)まきし・ちょうちゅう

朝日日本歴史人物事典 「牧志朝忠」の解説

牧志朝忠

没年:尚泰15.7.19(1862.8.14)
生年:尚【外6BB4】15(1818)
幕末期の琉球国末期の首里士族。当初は板良敷,次いで大湾,のちに牧志と称した。中国語や英語に堪能で異国通事となる。開化路線を展開した薩摩藩島津斉彬 から目をかけられ,尚泰10(1857)年には軽輩出ながら表十五人(首里王府の評議機関)の内の日帳主取にまでのぼった。しかし,斉彬の死(1858)を契機に,首里王府内の守旧派は斉彬によって罷免された三司官座喜味盛普の後任人事をめぐる疑獄事件の首謀者として牧志,御物奉行恩河朝恒,三司官小禄良忠を逮捕・投獄した(牧志・恩河事件)。事件は牧志が鹿児島で座喜味を誹謗したことや,その後任選挙において贈賄などによる画策を図ったとの風聞に端を発していた。首里王府の守旧派は,フランス艦船購入の対外政策や斉彬路線に難色を示す座喜味の追放,国王廃立の陰謀を企てたものとの嫌疑をかけたが,明白な証拠をあげることができず,すべて牧志の自白によって審理が展開された。その結果,牧志は久米島へ10年の流刑,小禄は伊江島の照泰寺へ500日の寺入れ,恩河は久米島へ6年の流刑とされた。だが恩河は尚泰13年閏3月13日に獄死。牧志は薩摩藩によって英語教授役とするため保釈されたが,鹿児島への途上,伊平屋島沖合いで投身自殺したとされる。<参考文献>金城正篤「伊江文書牧志・恩河事件の記録について」(『歴代宝案研究』2号)

(豊見山和行)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「牧志朝忠」の意味・わかりやすい解説

牧志朝忠
まきしちょうちゅう
(1818―1862)

幕末の琉球(りゅうきゅう)王国の役人。板良敷(いたらしき)朝忠ともいった。首里(しゅり)に生まれ国学(こくがく)に学んだのち、使節団の随員として中国に渡り、長期滞在中に中国語、学問を学んだ。帰国後与世山親方(よせやまうえーかた)に師事して英語の初歩を学び、異国通事(つうじ)に抜擢(ばってき)された。1853年(嘉永6)と翌年にかけ前後4回も来琉したペリーの率いるアメリカ艦隊との通訳、折衝に従事し、その才を認められた。やがて薩摩(さつま)藩主島津斉彬(なりあきら)の後ろ盾で日帳主取(ひちょうぬしどり)へ異例の出世を遂げ、また、斉彬が特派した4人の薩摩藩士に英語を教授した。教授内容は「琉英国語(りゅうえいこくご)」の名で現存している。斉彬急死に伴う薩摩藩の政変は、やがて琉球にも飛び火して牧志・恩河(おんが)事件(1858~59)が起こり、彼も政敵の手で粛清された。その後役目で薩摩に赴く途中、海に身を投げて死んだという。

[高良倉吉]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「牧志朝忠」の解説

牧志朝忠 まきし-ちょうちゅう

1818-1862 琉球王国の役人。
尚灝(しょうこう)王15年生まれ。中国語,英語にすぐれ,ペリー来琉時の通事をつとめた。薩摩(さつま)鹿児島藩の島津斉彬(なりあきら)にみとめられ,日帳主取(ひちょうぬしどり)にすすむ。斉彬の死後,牧志・恩河(おんが)事件で免職,10年の流刑となる。朝忠の語学力を必要とした鹿児島藩の要請で釈放され,鹿児島にむかう途中,尚泰王15年7月19日投身自殺。45歳。前姓は大湾(おおわん),板良敷(いたらしき)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android