日本大百科全書(ニッポニカ) 「牧志朝忠」の意味・わかりやすい解説
牧志朝忠
まきしちょうちゅう
(1818―1862)
幕末の琉球(りゅうきゅう)王国の役人。板良敷(いたらしき)朝忠ともいった。首里(しゅり)に生まれ国学(こくがく)に学んだのち、使節団の随員として中国に渡り、長期滞在中に中国語、学問を学んだ。帰国後与世山親方(よせやまうえーかた)に師事して英語の初歩を学び、異国通事(つうじ)に抜擢(ばってき)された。1853年(嘉永6)と翌年にかけ前後4回も来琉したペリーの率いるアメリカ艦隊との通訳、折衝に従事し、その才を認められた。やがて薩摩(さつま)藩主島津斉彬(なりあきら)の後ろ盾で日帳主取(ひちょうぬしどり)へ異例の出世を遂げ、また、斉彬が特派した4人の薩摩藩士に英語を教授した。教授内容は「琉英国語(りゅうえいこくご)」の名で現存している。斉彬急死に伴う薩摩藩の政変は、やがて琉球にも飛び火して牧志・恩河(おんが)事件(1858~59)が起こり、彼も政敵の手で粛清された。その後役目で薩摩に赴く途中、海に身を投げて死んだという。
[高良倉吉]