出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
江戸末期の薩摩(さつま)藩主。斉興(なりおき)の長男。文化(ぶんか)6年9月28日江戸に生まれる。異母弟久光を推す一派との家督争い(お由良(ゆら)騒動)を経て1851年(嘉永4)43歳で藩主となった。その間曽祖父重豪(そうそふしげひで)の感化もあって洋学に傾倒し、蘭医(らんい)シーボルトに会見、川本幸民(こうみん)、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、高野長英(ちょうえい)、杉田成卿(せいけい)その他の洋学者に洋書の講読、翻訳をさせ、自らも蘭語を学び西洋文化の研究を行った。その知見を買われて世子時代、琉球(りゅうきゅう)への英仏船来航、宣教師居住などの外交問題処理のため、帰国を命ぜられた。藩主就任後は洋学研究の成果を洋式産業の採用に結集させた。まず反射炉の建設に着手したが容易に成功せず、それにひるんだ家臣に対し斉彬は「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり、退屈せずますます研究すべし」と励まし、ついに成功させたという。日本では当時佐賀だけに反射炉が建設されていた。このほか鑽開台(さんかいだい)、溶鉱炉その他各種の洋式工場をつくり、57年(安政4)集成館と命名した。ここでは大小砲銃をはじめ弾丸、火薬、綿火薬、農具、刀剣、陶磁器、各種ガラスなどを製造、また製紙、搾油、洋式朱粉、アルコール、金銀分析、めっき、硫酸など各種酸類、塩など製造品目は多方面にわたり、従業の職工、人夫は1日に1200人を超えたという。また造船に意を用い、洋式帆船いろは丸、洋式軍艦昇平丸、蒸気船雲行丸など洋式艦船の建造を行い、さらに幕府に大船建造の解禁ならびに日章旗を日本の総船章とすることを建議して採用された。
これらはいずれも当時日本をめぐる国際情勢について斉彬が明確な認識をもっていたからで、また徳川斉昭(なりあき)や松平慶永(よしなが)、山内容堂(ようどう)、伊達宗城(だてむねなり)や幕閣の阿部正弘(まさひろ)ら当代一流の人物と親交があり、外交問題については開国的意見をもち、将軍継嗣(けいし)問題では一橋慶喜(よしのぶ)を推していた。しかし不運にも、安政(あんせい)5年7月16日鹿児島で急死した。照国(てるくに)神社に祀(まつ)り、墓は鹿児島市島津家墓地にある。
[芳 即正]
『池田俊彦著『島津斉彬公傳』(1954・岩崎育英奨学会)』
(井上勲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
幕末の薩摩藩主。斉興の子。世子時代から英明をうたわれ,戸塚静海,高野長英をはじめ当時一流の洋学者に洋書の翻訳や講説をさせ,また徳川斉昭,松平慶永や老中阿部正弘らと親交を結び,その政治的見識を高く買われた。お由羅騒動を経て,1851年(嘉永4)襲封し,殖産興業策として,西洋型帆船・蒸気船の建造,反射炉・鑽開台・溶鉱炉の建設と銃砲・弾薬・地雷・水雷・綿火薬・硫酸・硝酸・塩酸の造兵工業から,ガラス・陶磁器・ハゼ蠟・農具の製造,水車動力利用の洋式紡織など万般にわたり毎日1200人もの従業員を擁する総称〈集成館事業〉を興した。一橋慶喜の将軍継嗣運動に努めたが,大老井伊直弼のために挫折した。鹿児島で兵の調練中急死したが,彼の抱負は薩摩藩勤王運動の原点となった。
執筆者:原口 虎雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1809.9.28~58.7.16
幕末期の大名。薩摩国鹿児島藩主。父は斉興。曾祖父重豪(しげひで)の影響で蘭学に造詣が深く,世子時代から徳川斉昭・同慶勝・松平慶永・阿部正弘・伊達宗城(むねなり)ら諸大名と政治・国際情報を交換し,琉球問題の処理を幕府から委任されるほど評価が高かった。またペリー来航予告情報を長崎でいち早く入手させ,藩としての対策も立てた。1851年(嘉永4)家督相続。藩政を刷新し,殖産興業を推進。城内に精錬所,磯御殿に反射炉や溶鉱炉などをもった近代的工場集成館を設置。写真研究,洋式艦船の建造,日の丸の日本国総船印制定を建言。将軍継嗣問題では一橋慶喜(よしのぶ)を推したが実現せず,58年(安政5)急死。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…江戸後期の島津家の継嗣をめぐる紛争。二十数年にわたる天保の藩政改革に人心はうみ,また1844年(弘化1)以来の英米仏による薩摩藩属領琉球への開国強請に危機感がみなぎっていた。48年(嘉永1)には世子斉彬(なりあきら)は40歳の壮齢であったが,斉興は藩主の座を譲らなかった。斉興や家老調所(ずしよ)広郷の考えでは〈斉彬の世になれば曾祖父重豪(しげひで)にならって,蘭癖のため藩庫をからにするであろう〉と,藩の前途を危ぶんでいたのである。…
…1859年(安政6)幕府が神奈川,長崎,箱館の3港を開いて以来,機械紡糸による優秀な綿糸が輸入されたが,その需要増大に対抗する紡糸技術を持たなかった日本は,洋式機械の導入を図るほかなかったのである。このような状況下で,それを率先実行したのは,諸機器の導入,研究に先鞭をつけた薩摩藩主島津斉彬である。彼の死後,その遺志を継いだ藩主島津忠義は1867年(慶応3)イギリスから水力や蒸気を動力としたミュール紡績機3台,スロッスル紡績機6台を輸入し,鹿児島紡績所を建設した。…
…薩摩国(鹿児島県)鹿児島に藩庁を置く外様大藩。鹿児島藩ともいう。藩主島津氏。戦国末期に貴久,その子義久・義弘が出て薩摩,大隅,日向の3州を統一したのが1576年(天正4)であり,86年までには九州制覇を遂げようとしていた。しかし豊臣秀吉の九州征伐により薩隅2国と日向諸県(もろかた)1郡だけとなり,関ヶ原の戦には西軍に属したが旧領を安堵された。朱印高は1617年(元和3)60万8916石,35年(寛永12)琉球高が加えられて73万2616石,内高は太閤検地の疎漏を訂正して1612年(慶長17)73万2157石(琉球高を含む),33年69万6321石,59年(万治2)74万7193石,藩政期最後の1725年(享保10)の検地では86万7028石となった。…
※「島津斉彬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
群馬県のマスコットキャラクター。人間だと7歳ぐらいのポニーとの設定。1994年の第3回全国知的障害者スポーツ大会(ゆうあいピック群馬大会)で「ゆうまちゃん」として誕生。2008年にぐんまちゃんに改名...
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
6/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
5/20 小学館の図鑑NEO[新版]昆虫を追加