物井村(読み)ものいむら

日本歴史地名大系 「物井村」の解説

物井村
ものいむら

[現在地名]四街道市物井・千代田ちよだ一丁目・同五丁目など

長岡ながおか村の北、鹿島かしま(物井川)左岸に位置する。集落は台地上にあり、北・西・南側は森林と原野。東方の鹿島川谷にある水田は増水時や印旛いんば沼の逆流による氾濫によって度々被害を受けた。「和名抄」の千葉郡物部ものべ郷の遺称地とされる。近世初頭も物部と称され、慶長一〇年(一六〇五)一二月二六日の知行宛行状に臼井領物部郷とみえ、当地のうち五〇〇石が旗本天方(のち青山に改姓)領となっている。同一九年の東金御成街道作帳によると高六〇〇石、道普請間数五〇間。寛永二年(一六二五)には葛飾かつしか郡のうち物井村として四〇〇石が同氏領(知行宛行状)。同一七年の金剛寺棟札(円福寺保管)には臼井うすい庄物部村金剛こんごう寺とある。元禄一一年(一六九八)全体が佐倉藩領となり幕末に至る(「年貢割付状」桜井家文書、以下断りのない限り同文書)

物井村
ものいむら

[現在地名]二宮町物井

高田たかだ村の西にあり、五行ごぎよう川と小貝こかい川の間に広がる平坦地に位置する。西は横田よこた村・鹿しか村、北は東沼ひがしぬま(現真岡市)など。近世、物井組(現在の上物井と東物井)・下物井組・西物井組の三組に分れ、桜町さくらまち(旗本宇津氏知行地)三ヵ村の一。地名は古代芳賀郡物部もののべ(和名抄)の転訛したものとされる。文和四年(一三五五)一月二八日の如来堂修理料差文(専修寺文書)にみえる「みねたか」は字峯高のことと思われ、如来堂(のちの専修寺)修理のために同所で五疋を負担している。慶長六年(一六〇一)真岡藩領、寛永九年(一六三二)相模小田原藩領、元禄一一年(一六九八)同藩主大久保氏の一族旗本宇津領となり、改革組合村ではほかに幕府領の物井村新田がみえる。慶安郷帳では田高六九〇石余・畑高五八七石余。貞享三年(一六八六)村明細帳(尊徳全集一〇)によれば、高一千八九六石余で、反別は田方一〇一町八反余・畑屋敷一二七町余、家数一八九(うち名主二・組頭四・本百姓九八・門百姓四八・無田一五・屋敷者六・草切一六)、人数九〇七、馬八三、田方は上田(三八町二反余)、畑方は下畑(四八町二反余)が最も多い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報