猿沢村(読み)さるさわむら

日本歴史地名大系 「猿沢村」の解説

猿沢村
さるさわむら

[現在地名]大東町猿沢

摺沢するさわ村の北にあり、北端に蓬莱ほうらい山がそびえる。中央を猿沢川が南に貫流し、南東方を興田おきた川が南流し砂鉄さてつ川に注ぐ。「やえんざわ」ともよばれた。村名の由来は藤原氏時代当地方を京都東山ひがしやまに擬して東山とよび、当地に奈良猿沢池を模倣して大規模な池を作ったためと伝える(「峠金山由来」菅原文書)。文禄元年(一五九二)六月一〇日某社(猿沢神社か)に奉納された神鏡に「猿沢村別当杢内」の銘があったといわれるが(「猿沢村史」など)、未詳。菅江真澄の「はしわの若葉」には当村の半行はんぎよう坂について「此地は榛生ノ荘にして萩生坂なるを、人みな訛りて、もはら蓁生坂とはいふとなん」とあり、天明三年(一七八三)当村出身の菅原道泰稿の「猿沢往来」には「我住所は奥州仙台領東山郷萩生之庄、東山松浦郷之猿沢村迚」などとあることから、当地方を古くは萩生はぎよう庄または松浦まつうら郷と称したともいう。

寛永一九年(一六四二)の猿沢村検地帳(藤田文書)があり、計一六冊のうち五冊のみ残るので、全村の反別などは不明。この検地の際新渡戸にわと集落三九軒が、天狗田てんぐだ村から当村に編入されたという。正保郷帳では猿沢宿とあり、田四四貫九七八文・畑三四貫一八〇文、ほかに新田一二貫二四三文があり、雑木山と注記される。「安永風土記」では田六三貫四七三文・畑五三貫八九七文(うち茶畑六九〇文)、うち蔵入三四貫九文・給所八三貫三六一文。人頭二八〇、家数二九七(うち名子二・水呑一五)、男八四三・女七一三、馬三〇七。


猿沢村
さるさわむら

[現在地名]朝日村猿沢

虚空蔵こくうぞう山南麓、高根たかね川右岸の広い傾斜地にある。西は上野うえの村、南は川端かわばた村に接する。南北に出羽街道が通る。「本庄氏系図」によれば、永正五年(一五〇八)本庄時長は上杉定実に和議を乞い、「瀬波郡猿沢」に隠居し家督を嫡男房長に譲ったという。永禄一一年(一五六八)一一月、上杉輝虎と交戦中の本庄繁長を援助するため、武田信玄使者を送った。しかし本庄ほんじよう(村上城)が上杉軍に包囲されていたので、使者は「猿沢」の地にしばらく留められた(同年一二月二四日「本庄繁長書状写」歴代古案)


猿沢村
さるさわむら

[現在地名]岩泉町猿沢

小本おもと川の支流猿沢川の流域にあり、乙茂おとも村の東に位置する。西寄りを猿沢川が北流し小盆地をつくる。元禄十郡郷帳では当村は鼠入そいり村に入るとある。安永五年(一七七六)の宮古代官所支配高帳(小笠原文書)では高五五石余、全村蔵入地で免一ツ二分七厘六毛、出米七石七升一合。享和三年(一八〇三)の仮名付帳によれば家数四四、うち本村九、枝村は下猿沢一四・申米さるごめ二・中蔵なかくら一四・外山そとやま五。「管轄地誌」に家数四六・人数二六五、牛一〇一・馬四二とあり、産物として藍・桐・麻・炭などをあげる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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