朝日日本歴史人物事典 「玉乃世履」の解説
玉乃世履
生年:文政8.7.21(1825.9.3)
明治前期の司法官。岩国藩(山口県)藩士桂脩助の子。号は五竜,通称は東平,泰吉郎。玉乃九華に学び,九華没後その跡を継いで玉乃の姓を名乗った。長州征討の折に農民隊を率いて幕軍を迎え撃ち,その功績により御蔵元の仕置方に任ぜられた。明治2(1869)年1月若松表民政取締としてはじめて新政府に出仕。その後,民部省判事,聴訟司知事,民部権大丞兼東京府権大参事などを歴任。4年8月,新設された司法省に入って司法権大判事となり,広沢真臣参議暗殺事件をはじめ数々の事件で辣腕を振るい,また江藤新平司法卿の時代に各種の法典編纂に参与した。8年5月,新設の大審院の院長代理(院長は欠員)を命ぜられた。このとき,現在の最高裁判所に当たる大審院の地位は各省の下と定められたが,2等判事玉乃世履の院長代理就任はその地位の低さを象徴している。11年9月初代大審院長に任命されたが,翌年10月司法大輔に転じ元老院議官を兼ねた。14年7月大審院長に再任され,15年1月高等法院の裁判長を兼任する。内乱罪などを管轄する同院は,自由党福島事件の審理に当たって政府側の圧力にもかかわらず,大部分の被告を無罪とし,大物数名のみを内乱罪としては最も軽い刑で処理した。これは,司法権の独立がまだ確立しておらず,大審院の地位が低い時代に,玉乃が藩閥政府に対して試みた司法権確立のためのぎりぎりの抵抗とみることもできる。自宅で自殺を遂げたが,その原因には諸説あり,真相は不明である。
(楠精一郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報