ホイットニー(読み)ほいっとにー(英語表記)Eli Whitney

デジタル大辞泉 「ホイットニー」の意味・読み・例文・類語

ホイットニー(Eli Whitney)

[1765~1825]米国の発明家。綿繰り機を発明し、米国南部の綿花栽培の増大に貢献。のち小銃の製造で、互換性部分を作ることによる大量生産の方式を採用し、また、フライス盤を発明した。

ホイットニー(Whitney)

米国カリフォルニア州南東部にある、シエラネバダ山脈の主峰。標高4418メートル。アラスカ州を除いた米国の最高峰。

ホイットニー(William Dwight Whitney)

[1827~1894]米国の言語学者・サンスクリット学者。著「言語とその研究」「言語の生命と成長」「梵語文典」など。

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精選版 日本国語大辞典 「ホイットニー」の意味・読み・例文・類語

ホイットニー

  1. [ 一 ] ( Eli Whitney イーライ━ ) アメリカの発明家。一七九四年綿繰り機を、一八一八年には銃の製造のためにフライス盤を発明した。(一七六五‐一八二五
  2. [ 二 ] ( William Dwight Whitney ウィリアム=ドワイト━ ) アメリカの言語学者。サンスクリット学者。著書「サンスクリット文法」「言語および言語研究」「言語の生命と成長」「梵語文典」。(一八二七‐九四

ホイットニー

  1. ( Whitney ) 米国カリフォルニア州南東部にある、シエラネバダ山脈の主峰。標高四四一八メートル。アラスカ州を除いた米国の最高峰。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホイットニー」の意味・わかりやすい解説

ホイットニー(Eli Whitney)
ほいっとにー
Eli Whitney
(1765―1825)

綿繰機(わたくりき)の発明で知られるアメリカの機械技術者。アメリカ機械工業勃興(ぼっこう)期に互換性部品による大量生産方式を確立するなど経営面でも才能を発揮した。マサチューセッツ州の農場で生まれ、エール大学卒業後1792年ジョージア州サバナへ行き、独立戦争のグリーンNathanael Greene(1742―1786)将軍の未亡人Catharine Greene(1755―1814)の示唆により、綿実から繊維を分離する機械の開発を思い立つ。木製の円筒に針を植えた模型を数週間で完成し、1794年に特許をとったが、発効以前に盗用されて発明による利益は得られなかった。しかしこの綿繰機によって綿繰り能力は従来の50倍(のち300倍に改良)にも増大した。また、それまでは西インド諸島産の海島綿しか綿繰りに向かなかったが、綿繰機の発明で大陸産の綿実も使用できるようになり、アメリカ南部の綿作隆盛を招いた意義は大きい。1798年政府とマスケット銃1万挺(ちょう)を2年間で製作する契約を結び、個々の部品を別々につくって組み立てる互換性方式を採用する。そのためにジグ(治具)やフライス盤などの新しい工作機械を採用するなど、以後の機械工業生産の基礎を確立する画期的業績を残した。

[篠原 昭]


ホイットニー(William Dwight Whitney)
ほいっとにー
William Dwight Whitney
(1827―1894)

アメリカの言語学者。エール大学のサンスクリット語教授。ホイットニーは、欧米の言語研究が、アリストテレス以来の論理学的アプローチか、さもなければ19世紀に盛んになった生体論的アプローチによっていることに異議を唱え、「言語とは恣意(しい)的な契約に基づく社会制度である」という理論をたてた。これはスイスの言語哲学者F・ド・ソシュールに多大な影響を与えた考え方であり、まさに従来の「言語学の軸を変えた」(ホイットニーへの未完追悼論文、1894)といわしめている。その主張は『言語と言語研究』Language and the Study of Language(1867)と『言語の生命と発達』The Life and Growth of Language(1874)に詳しい。

丸山圭三郎 2018年8月21日]

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改訂新版 世界大百科事典 「ホイットニー」の意味・わかりやすい解説

ホイットニー
Eli Whitney
生没年:1765-1825

アメリカの発明家。マサチューセッツ州ウェストボロの生れ。父の農場で釘などの小物を製造していたが,18歳のとき大学教育を受ける決意をする。1792年27歳でイェール大学を卒業,教師の勤め口を求めにジョージア州にいくが得られず,サバンナでグリーン将軍の未亡人の農場に招かれた。そこに滞在中の93年綿繰機(コットンジン)を発明,これは人力や馬,水力でも運転できる簡単な構造であったが,能率的で1日約23kgを製綿できた。翌年特許を得たが機械は模倣されて南部に急速に広まり,南部諸州を綿王国に築き上げたものの,ホイットニー自身は,サウス・カロライナ州政府の援助金も特許紛争などで失い,利益をあげることはできなかった。一方,彼は98年に政府と,2年間でマスケット銃1万丁を供給する契約を結んだ。綿繰機の生産過程で得た機械を小銃生産に充用できると考えたのである。それまで小銃は職人の手仕事で作られ,小銃の各部品は相互に互換性がなかったのに対し,ホイットニーは製作工具を用い,部品を規格化し,その生産に初めて互換方式を確立したといわれる。政府への小銃供給はようやく1809年に果たされたが,互換方式そのものはフランスの武器製作所や,アメリカでもいくつかの簡単な工作機器で試みられており,ホイットニーはこれらをマスケット銃の生産体系に構成したものとみられる。彼がフライス盤を最初に発明(1818)したということも現在では疑問視されており,また個々の工作機械発明でのホイットニーの寄与は不明確な点もあるが,彼の互換性部品生産方式は他の機械部門にも広がり,〈アメリカ方式〉といわれる大量生産方式の基本を確立するものとなった。
執筆者:


ホイットニー
William Dwight Whitney
生没年:1827-94

アメリカの言語学者,サンスクリット学者。イェール大学に学び(1850),次いでドイツに留学し,A.ウェーバー,R.ロートに師事し,帰国して母校の教壇に立ってサンスクリットおよびインド・ヨーロッパ語比較言語学を講じた。アメリカのサンスクリット学,インド学の先駆的学者で,1884年にはアメリカ東洋学協会会長となり,また69年にはアメリカ言語学協会の初代会長に選ばれて,広く東洋学,言語学の発展に貢献した。インド学の分野では,ベーダ学,なかんずく《アタルバ・ベーダ》の研究に専念し,その全訳を公刊し(1855-56),索引を作製した(1881)。その《サンスクリット文法Sanskrit Grammar》(1879)は英語で書かれたサンスクリット文法書の中で最もよくまとまったものとして版を重ね,その補遺《動詞活用表》(1885)は現在もサンスクリット学者の必携書である。言語学の分野では《センチュリー大辞典》(1889-91)の編集に従事し,《言語および言語研究》(1867),《言語の生命と成長》(1875)などの著作がある。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホイットニー」の意味・わかりやすい解説

ホイットニー
Whitney, Eli

[生]1765.12.8. マサチューセッツ,ウェストボロ
[没]1825.1.8. コネティカット,ニューヘーブン
アメリカの発明家。農家に生れる。少年時代から機械に対する才能を発揮し,エール大学在学中も新しい装置を工夫。大学卒業 (1792) 後,ジョージア州の綿業者との交友をきっかけに「ジン」と呼ばれる綿繰機を発明した。この機械は1列に並べて植えた大釘に綿の実を通過させて種子を繊維から分離するという簡単な構造だったために模倣されて,特許は取ったものの実益はなかった。しかしこの機械の急速な普及により,綿の品質と価格が飛躍的に変化し,アメリカ綿業の進歩に大きく貢献した。 1798年小銃の生産に転じ,政府に納めるマスケット銃の製作を契約,部品を標準化し,他の製品の部品と互換可能とした。この生産方法はのちに他の政府兵器廠や各種製造業者により採用されて発展し,アメリカ式生産方式とも呼ばれる大量生産の基礎となった。

ホイットニー
Whitney, William Collins

[生]1841.7.5. マサチューセッツ,コンウェー
[没]1904.2.2. ニューヨーク
アメリカの実業家,政治家。 1863年エール大学卒業後,ハーバード大学で法律を学び,ニューヨークで弁護士を開業。 S.ティルデンの信頼を得て「ツウィード派」に対する戦いを進め,70年代の腐敗したニューヨーク市自治体の再建に尽力。 84年大統領選挙で G.クリーブランドを支持,85~89年海軍長官をつとめ,近代海軍の育成に貢献。 92年の大統領選挙ではクリーブランドの再選に重要な役割を果した。公務を退いてのち,ニューヨークの市電,電気関係の実業家として活躍。

ホイットニー
Whitney, William Dwight

[生]1827.2.9. マサチューセッツ,ノーサンプトン
[没]1894.6.7. コネティカット,ニューヘーブン
アメリカの言語学者。エール大学のサンスクリット語と比較言語学の教授を長くつとめ,『アタルバ・ベーダ』 Atharva Vedaの編集や注釈,『サンスクリット語文法』A Sanskrit Grammar (1879) などの著書がある。また言語を一種の社会習慣とする彼の言語観は『言語の生命と成長』 The Life and Growth of Language (75) などに述べられ,ソシュールにも影響を与えた。

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朝日日本歴史人物事典 「ホイットニー」の解説

ホイットニー

没年:1882.8.29(1882.8.29)
生年:1825.1.25
明治期の外国人教師。アメリカ人。エール大学卒業後,1852年,ニューアークにチェーン組織の商業学校を経営したが事業に失敗。ニューアーク校の学生富田鉄之助と初代駐米公使森有礼のすすめで,明治8(1875)年8月来日。森が創立した商法講習所(一橋大学)の簿記教師に就任した。9年講習所が東京府に移管されたとき着任した初代所長矢野二郎と意見が合わず,11年6月解任された。一家は長男の医学修学のためいったん帰国したが,15年再来日の途上ロンドンで客死した。墓はロンドン郊外のハムステッド墓地にある。彼の商法講習所における複式簿記と商業実践の講義は,彼の弟子たちによって忠実に受け継がれ,わが国の学校における近代商業教育の展開の基礎を築いた。<参考文献>細谷新治『商業教育の曙』全2巻,西川孝治郎『日本簿記史談』

(細谷新治)

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百科事典マイペディア 「ホイットニー」の意味・わかりやすい解説

ホイットニー

米国の機械技術者。1793年綿繰機を発明,綿の種子をくり除く能率を手の場合の数百倍に高めた。のち銃器生産に転じ,1798年政府からの小銃大量受注に際し,部品を規格化した互換式生産法を採用,機械大量生産の基礎を築いた。
→関連項目カリフォルニア[州]コルト

ホイットニー[山]【ホイットニー】

米国,カリフォルニア州南東部,シエラ・ネバダ山脈中の高山。アラスカを除く米国の最高峰。標高4418m。氷河地形が発達し,風景が美しく,セコイア国立公園に属する。
→関連項目シエラ・ネバダ[山脈]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ホイットニー」の解説

ホイットニー Whitney, Clara A.N.

1860-1936 アメリカの女性。
1860年8月30日生まれ。W.C.ホイットニーの長女。明治8年(1875)父とともに来日。父の就職が順調にすすまず,困窮して勝海舟の援助をうける。19年海舟の3男梶梅太郎と結婚し,1男5女をもうける。明治女学校でおしえ家計をささえたが,33年離婚,帰国した。「クララの明治日記」をのこす。1936年12月6日死去。76歳。ニュージャージー州出身。

ホイットニー Whitney, Willis Norton

1855-1918 アメリカの医師。
1855年10月18日生まれ。W.C.ホイットニーの長男。明治8年(1875)父とともに来日。東京大学でベルツに医学をまなび,のちペンシルベニア大を卒業する。15年再来日,アメリカ公使館付通訳官となる。19年勝海舟らの援助で東京に赤坂病院を設立,医療伝道をおこなった。1918年10月26日イギリスで死去。63歳。ニュージャージー州出身。

ホイットニー Whitney, William Cogswell

1825-1882 アメリカの教育者。
1825年1月25日生まれ。在米中の森有礼(ありのり)のすすめで,明治8年(1875)商法講習所(現一橋大)簿記教師として来日。学校運営がうまくすすまず,11年退任。のち銀座簿記夜学校でおしえた。13年帰国。のち一家で日本にむかう途中,1882年8月29日ロンドンで死去。57歳。ジョージタウン出身。エール大卒。

ホイットニー Whitney, Courtney

1897-1969 アメリカの軍人。
1897年5月20日生まれ。昭和20年連合国軍最高司令官マッカーサーの側近として来日し,GHQ民政局長となる。憲法改正の草案作りを指揮するなど,戦後日本の民主化に力をそそいだ。26年陸軍少将で退役,帰国。1969年3月21日死去。71歳。ワシントン出身。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ホイットニー」の解説

ホイットニー
Eli Whitney

1765〜1825
アメリカの発明家
1793年綿繰り機を発明。これにより,品質がよく価格の安い綿花が大量に生産されるようになり,アメリカの産業革命の先駆となった。このため,アメリカ南部の綿花栽培は促進され,綿花王国を現出した。また,マスケット銃の部品を規格化し,生産に互換方式を確立。大量生産方式の基礎を築いた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ホイットニー」の解説

ホイットニー
Eli Whitney

1765~1825

アメリカの発明家。1793年に綿繰り機を発明,アメリカ内陸産の綿の種子除去を容易にし,それによりアメリカ南部の綿花栽培の急速な拡大を導いた。また彼は部品組立方式を考案し小銃の生産に応用した。

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367日誕生日大事典 「ホイットニー」の解説

ホイットニー

生年月日:1841年7月5日
アメリカの実業家,政治家
1904年没

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世界大百科事典(旧版)内のホイットニーの言及

【限界ゲージ】より

…実寸法が両許容限界寸法以内にあるかどうかは限界ゲージによって検査することができる。1798年にアメリカでホイットニーEli Whitney(1765‐1825)が互換性を考えた生産方式を取り入れ大量生産方式の基礎を作った。それが19世紀の中ごろイギリスのホイットウァースJoseph Whitworth(1803‐87)の働きによって重要な意義をもつようになった。…

【限界ゲージ】より

…実寸法が両許容限界寸法以内にあるかどうかは限界ゲージによって検査することができる。1798年にアメリカでホイットニーEli Whitney(1765‐1825)が互換性を考えた生産方式を取り入れ大量生産方式の基礎を作った。それが19世紀の中ごろイギリスのホイットウァースJoseph Whitworth(1803‐87)の働きによって重要な意義をもつようになった。…

【拳銃】より

…1834年S.コルトは,銃工ジョン・ピアソンの協力をえてパーカッション・リボルバー1号を完成,35‐36年にイギリス,アメリカ両国で回転式弾倉の特許を取得した。またコルトは1847年に陸軍から大量の拳銃を受注した際,かねてから着眼していたホイットニービルの工場と契約し,初めて拳銃量産化の道を開いた。同工場創設者の初代E.ホイットニーは綿繰機の発明で知られるが,さらに小銃の量産化を互換性部品の分業生産と組立てラインにより達成して,アメリカ独自の生産様式に先鞭をつけている。…

【綿繰器(綿繰機)】より

…日本へは綿の伝来とともに伝えられたのであろう。綿繰りの機械化は18世紀の後半からアメリカで始まったが,1793年E.ホイットニーにより発明された〈ソージンsaw gin〉(鋸歯式綿繰機)が,その後の基本型となった。これは,円板のこぎりのようなディスクが多数並んでいて,細いスリットのあけられた板から歯が出ているものである。…

【辞書】より

…そして革新的な傾向をもつウェブスター辞典と保守的で柔軟・穏健な立場をとるウースター辞典との間にいわゆる〈辞書戦争〉が起こったが,結局ウェブスター辞典の改訂版が勝利を収めた。ウェブスター辞典の地位は,19世紀末相次いで刊行された大辞典,言語学者W.D.ホイットニー編《センチュリー辞典》6巻(1889‐91。改訂版12巻,1911)やファンクIsaac Kauffman Funk(1839‐1912)編《標準英語辞典》2巻(1893‐94,改訂版1913)等の出現によっても揺るがず,その新版《ウェブスター新国際英語辞典》(1909,第2版1939,第3版1961)はアメリカにおいて最も権威ある大辞典の座を独占している。…

※「ホイットニー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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