アレクサンドル(読み)あれくさんどる(英語表記)Александр Ⅰ/Aleksandr Ⅰ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アレクサンドル」の意味・わかりやすい解説

アレクサンドル(1世)
あれくさんどる
Александр Ⅰ/Aleksandr Ⅰ
(1777―1825)

ロシアの皇帝(在位1801~1825)。パーベル1世の長男として12月12日生まれ、祖母のエカチェリーナ2世とスイス人教育係ラ・アルプから啓蒙(けいもう)主義思想を教えられた。宮廷革命で父親が暗殺されると、衆望を担って即位し、治世の前半は自由主義的改革を行った。外交政策では、最初イギリスおよびフランスと条約を結んで友好関係を維持しようと努めたが、ナポレオンが登場するや、イギリスの提唱する対仏大同盟に加入した。しかしアウステルリッツとフリードラント(現、プラブディンスク)でナポレオン軍に大敗を喫し、ティルジット講和を結んだ(1807)。このあとトルコおよびスウェーデンと戦って勝利を収め、ジョージアグルジア)(1801)、フィンランド(1809)、ベッサラビア(1812)およびアゼルバイジャン(1813)を併合した。ナポレオン戦争に勝利したあと、彼はヨーロッパの秩序を回復するため、ウィーン会議と神聖同盟の成立に積極的な役割を果たした。しかし治世の後半は、悪名高いアラクチェーエフらを登用して反動的な政策を推し進め、晩年は神秘主義へ傾いていった。1825年11月19日、南ロシアのタガンログ旅先で急死した。

[外川継男]


アレクサンドル(3世)
あれくさんどる
Александр Ⅲ/Aleksandr Ⅲ
(1845―1894)

ロシアの皇帝(在位1881~1894)。アレクサンドル2世の次男として2月26日生まれ、兄ニコライの死によって皇太子となり、父帝の暗殺で即位した。皇太子時代に保守的思想家ポベドノースツェフの影響を強く受け、ロシアにとっては強力な専制がもっともふさわしい政治形態だと確信するようになった。即位直後、「臨時措置令」を公布して、革命運動を厳しく取り締まった。1880年代の前半には人頭税を廃止するなど、経済の分野でいくつかの改革を行ったが、後半になると、前皇帝の時代に施行された改革を廃止または改悪し、「反改革」を推し進めた。その典型的な例が1889年に設立された地方主事の制度である。外交面では、ドイツとの関係がしだいに悪化し、フランスに近づいてロシア・フランス同盟を成立させた。経済政策の分野では、ウィッテを蔵相に登用して、政府による「上からの工業化」の端緒をつくった。1894年10月20日没。

[外川継男]



アレクサンドル(2世)
あれくさんどる
Александр Ⅱ/Aleksandr Ⅱ
(1818―1881)

ロシアの皇帝(在位1855~1881)。ニコライ1世の長男として4月17日生まれ、クリミア戦争の最中に死んだ父帝の後を襲って即位した。元来は保守的な見解の持ち主であったが、戦争で敗れたロシアを1日でも早くヨーロッパの列強の水準に近づけるために、有能な官吏の意見をいれて、次々と改革を断行した。まず1861年には農奴解放令を発して、全国で2300万人の農奴農民を解放した。ついでゼムストボとよばれる地方自治会を設立し、地方行政を改革(1864)、また同じ年に司法制度も改革した。さらに1874年には軍制の改革も行った。これによって後年、彼は「解放皇帝」とよばれ、その治世は「大改革の時代」とよばれた。しかしポーランドの反乱(1863~1864)を鎮圧してからは、しだいに反動的な政策をとるようになり、それにつれて革命運動も盛んになっていった。ついに1881年3月1日、ナロードニキの「人民の意志」派のメンバーによって暗殺された。

[外川継男]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例