日本歴史地名大系 「生石村」の解説 生石村いくしむら 大分県:大分市旧大分市地区生石村[現在地名]大分市生石一―五丁目・浜の市(はまのいち)一―二丁目・生石港町(いくしみなとまち)一―二丁目・王子西町(おうじにしまち)、八幡(やはた) 御幸(みゆき)、生石など駄原(だのはる)村の西に位置し、北は海、西は豊前道で大山(おおやま)村に続く。〔古代・中世〕生石は古代では祓(はらい)川の流域を主体とし、現生石地区から現駄原(だのはる)地区辺りをさす。当地区には蟹喰(かにくい)横穴墓群・穴蟹喰(あなかにくい)横穴墓群(消滅)などがあり、古墳時代後期の開発が想定される。天喜元年(一〇五三)三月一九日の由原宮座主僧救円解状(柞原八幡宮文書、以下同文書)に「生石御浜」とみえ、由原(ゆすはら)宮閏月灯油料田の不足につき、生石浜に隣接する生石迫下生石里三三坪内の常荒田二反を料田として施入することを申請している。生石浜は、由原宮における最大の神事である放生会が行われる場所で、祓川河口部の現生石港町一帯をさし、生石迫は同川流域の現生石・八幡辺りをさす。生石里三三坪の記載や、八幡の字一(いち)ノ坪(つぼ)地名などから条里地割の実施が想定されるが、祓川下流域の谷底平野でも六町幅の里を設定するのは不可能である。したがってこれらの地名・史料は条里呼称にならった地名表記と考えるべきである。生石迫には、長寛二年(一一六四)に閏月灯油田二段のほか、安居田三段と畠地として仁王講五段があったが(九月三日由原宮宮師僧院清譲状)、正応二年(一二八九)には仁王講は畠地から田となり、安居田は平丸と合せて六段となっている(三月三日賀来社宮師僧円清譲状)。乾元二年(一三〇三)に生石浜放生会役を勤仕する国東(くにさき)郷船の渡海中の破損により、還御を延期せざるを得ない状況が生じている(八月一五日豊後国在国司沙弥行念請文)。 生石村おうしこむら 兵庫県:高砂市生石村[現在地名]高砂市阿弥陀町生石(あみだちようおうしこ)法華山谷(ほつけさんたに)川を挟んで島(しま)村の西に位置し、竜山(たつやま)丘陵北西の山麓に立地する。生石子とも書いた(但州湯嶋道中独案内)。印南(いなみ)郡に属した。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に「おしこ村」とみえ、木下家定は当村内で五一石余を与えられている。慶長国絵図には大生石とみえ、「おういし」と読みが付される。江戸時代を通じて姫路藩領。正保郷帳では田方七一石余・畑方五石余。明和九年(一七七二)の村明細帳控(船津家文書)によると田高九四石余・反別五町三反余、畑高六石余・反別六反余、新田畑高一石余・反別一反余、家数三二・人数一五六(うち石切一〇)、牛四、小物成として草藁銀五一匁・石上納銀三六匁などがあり、用水は小(こ)池(東西一四間・南北一三間半)と樋詰(ひづめ)井堰を利用。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by