日本歴史地名大系 「用石村」の解説
用石村
もちいしむら
- 高知県:土佐市
- 用石村
永禄一二年(一五六九)一二月吉日付で一条康政が発した軍忠を勧奨する書状(蠧簡集)に「御弓箭御利運之刻、用石之内一之宮分・野垣分、二分為請領可被仰付候、弥心懸干要候也」とみえる。一之宮分・野垣分に相当する「名」も後述の地検帳にみえる。このあと一条氏は敗退し、この地域は長宗我部氏の支配下に入った。天正一七年(一五八九)の用石村地検帳によれば総検地面積八七町六反余。村内に約一一〇筆の屋敷があり、うち六十数筆は小字「宮崎」から南へ、現在
慶長五年(一六〇〇)山内一豊の先遣として入国した弟康豊は、浦戸一揆を避けて仁淀川河口新居の湊に舟を入れ、当村万願寺南端付近に上陸、喜兵衛方に止宿したと伝える(皆山集)。百姓・一領具足の還住安堵をすすめるため、用石の喜兵衛・同政所あてに発した康豊の書状が「土佐国群書類従」に載る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報