用石村(読み)もちいしむら

日本歴史地名大系 「用石村」の解説

用石村
もちいしむら

[現在地名]土佐市用石

津賀地つかじ村の東、仁淀によど川下流西岸にある。対岸森山もりやま村・西畑さいばた(現吾川郡春野町)仁淀川河岸から離れた西方の集落初田はつた波介はげ川北岸の野尻のじり初生しよせい付近も用石村のうち。弥生中期末の甫木山ほきやま遺跡がある。

永禄一二年(一五六九)一二月吉日付で一条康政が発した軍忠を勧奨する書状(蠧簡集)に「御弓箭御利運之刻、用石之内一之宮分・野垣分、二分為請領可被仰付候、弥心懸干要候也」とみえる。一之宮分・野垣分に相当する「名」も後述の地検帳にみえる。このあと一条氏は敗退し、この地域は長宗我部氏の支配下に入った。天正一七年(一五八九)の用石村地検帳によれば総検地面積八七町六反余。村内に約一一〇筆の屋敷があり、うち六十数筆は小字「宮崎」から南へ、現在新居にい井筋が通る自然堤防上四〇〇メートルほどの間に集中する。西方山麓にはもり万願寺まんがんじ付近に一〇筆ほど点在するにすぎず、現在とは大いに異なる。残る三十数筆は野尻・井関口・初田など北西部に存在。また農耕地の八割は畠で、水田は山沿いに連なる。南東部には河原畠「下スカ」六十数筆があり、「東ノ丁」「中ノ丁」「西ノ丁」に区画され、一筆の広さもほとんど一反に均分され、計画的に地割されたことを示す。名請関係は、給・名・分が入交じり、とくに大口の給人はみえず、扣人・作人はかなりの耕地について空白のままである。

慶長五年(一六〇〇)山内一豊先遣として入国した弟康豊は、浦戸一揆を避けて仁淀川河口新居の湊に舟を入れ、当村万願寺南端付近に上陸、喜兵衛方に止宿したと伝える(皆山集)百姓・一領具足の還住安堵をすすめるため、用石の喜兵衛・同政所あてに発した康豊の書状が「土佐国群書類従」に載る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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