新居村(読み)にいむら

日本歴史地名大系 「新居村」の解説

新居村
にいむら

[現在地名]土佐市新居

仁淀によど川河口西岸にあり、対岸は吾川あがわノ村・西畑さいばた(現春野町)、北は用石もちいし村、西は山嶺とはぎ岬を隔てて宇佐うさ村。現在、県道が南北に貫き、近年仁淀川河口大橋の架橋で土佐湾沿いに開通した横浪黒潮よこなみくろしおラインと立石たていしで合流する。人口の大部分南端砂丘上の半農半漁の集落である甫淵ほぶち・立石・いけうらに集中、以北はハウス園芸の純農業地帯で、山裾に集落がある。

和名抄」にみえる古代の高岡郡三井みい郷の地といわれ(南路志)、中世は高岡たかおか庄七郷の一であった。「吉槐記」乾元二年(一三〇三)二月七日条所引の文書に高山寺と万里小路大納言入道との間に「高岡庄内新居郷」についての争いがあったことがみえる。天正一七年(一五八九)の長宗我部地検帳の表紙には「高岡郡新居庄」とみえ、総検地面積一〇六町一反余。屋敷数約一七〇筆、うち七割はほん村とかみノ村、および両者の間の自然堤防上に、二割は立石・池ノ浦付近にある。本村には「上ヤシキ」が集中し、庄屋坂本八郎左衛門(「秦氏政事記」蠧簡集)の屋敷もみえる。上ノ村では「尾川分」が多く、そのなかに「土ゐヤシキ」「政所ヤシキ」「コク領」などの小字も残る。池ノ浦村二四筆はすべて「池浦分」(池浦寺領)。水田は山裾に連なり、自然堤防上はほとんど畠である。灌漑用水の不足が生産性の向上を阻害していた。仁淀川の河口に近く、舟番匠の居屋敷や種崎たねざき(現高知市)居住の上乗(上級水主)たちの給地が散見し、付近にはいまも湊・湊内の小字が残る。立石の海浜には塩浜二〇筆があった。

慶長五年(一六〇〇)山内一豊の先遣として入国した弟康豊は、浦戸一揆を避けて新居の湊に船を入れ、用石村に滞在したという(皆山集)


新居村
にいむら

[現在地名]国分寺町新居

国分こくぶ村の東に位置し、五色ごしき台山系の大平おおひら山の南斜面とその南麓の平地に立地。古代の阿野あや新居にいのみ(和名抄)の遺称地で、南海道(近世の丸亀街道にほぼ合致)が通っていた。天平一三年(七四一)三月二四日の聖武天皇の国分寺建立の詔(続日本紀)によって当地に国分尼寺(法華寺)が建立された。仁和二年(八八六)讃岐国守として着任した菅原道真が法華ほつけ寺を訪れており、「法華寺白牡丹」と題する漢詩を詠んでいる(菅家文草)


新居村
あらいむら

[現在地名]尾張旭市南原山みなみはらやま町・東栄とうえい町・大久手おおくて町・あさひおか町・北原山きたはらやま町・新居町・東大道ひがしだいどう町・西大道にしだいどう町・城山しろやま町・城前しろまえ町・旭前あさひまえ町・平子ひらこ町・旭台あさひだい・新居・柏井かしわい町・東大久手ひがしおおくて

東は水野みずの村・いま(現瀬戸市)、西は印場いんば村に接する。南端に名古屋から瀬戸に通じる瀬戸街道が東西に走り、八瀬やせで瀬戸の定光じようこう寺に至る定光寺街道と分れる。ひら池の東南から瀬戸街道に沿って、東方に条里制の遺構が認められる。


新居村
あらいむら

[現在地名]磐田市新島あらしま

長須賀ながすか村の北にあり、北は気子島けごじま(現豊田町)豊田とよだ郡に属する。正保郷帳に新居村とあり高一五九石余、幕府領。うち田方九三石余・畑方六五石余、日損と注記される。元禄郷帳では高一六三石余。


新居村
あらいむら

[現在地名]岡崎市新居町

青木あおき川の上流の山間に散在する村。集落は、標高二六八メートルの山麓に散在。東は小丸こまる村に続き、北は山嶺を隔ててやなぎ村に続く。南も一帯の山地蔵次くらなみ村、西は安戸やすど村に接する。近世を通じて岡崎藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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