田中河内介(読み)たなかかわちのすけ

改訂新版 世界大百科事典 「田中河内介」の意味・わかりやすい解説

田中河内介 (たなかかわちのすけ)
生没年:1815-62(文化12-文久2)

幕末尊攘志士。〈こうちのすけ〉ともいう。名は綏猷(やすみち)。但馬出石郡香住村の医師小森正造の次男。若くして京に上り,公家の中山家に仕え,同家家臣田中近江介の養子となり,河内介と称する。当主中山忠能(ただやす)をたすけて政治活動に入り,1862年(文久2)島津久光上京をむかえて挙兵しようとする西国の志士たちの計画に参加した。しかし寺田屋事件で捕らえられ,薩摩へ護送される途中,播磨沖でその子磋(瑳)磨介とともに殺害された。
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朝日日本歴史人物事典 「田中河内介」の解説

田中河内介

没年:文久2.5.1(1862.5.29)
生年:文化12.1?(1815)
幕末の尊攘派志士。名は綏猷,号は恭堂,臥竜。但馬国(兵庫県)出石の医者小森正造の子に生まれる。天保11(1840)年上京して中山忠能に仕え,同家諸大夫田中近江介の養子となる。忠能の子忠愛・忠光・慶子および祐宮(明治天皇)を教育。諸国の尊攘派志士と交際を広め,そのことで主家に累がおよぶのを恐れて文久1(1861)年辞職。柴山愛次郎,平野国臣,小河一敏,清河八郎らと,同2年の島津久光上洛を機に挙兵を企てたが,寺田屋の変で弾圧。海路薩摩に護送される途中,斬殺された。「ながらへてかはらぬ月を見るよりも死して払はん世々の浮雲」の辞世を残す。<参考文献>豊田小八郎『田中河内介伝』

(三井美恵子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中河内介」の意味・わかりやすい解説

田中河内介
たなかかわちのすけ
(1815―1862)

幕末の尊王攘夷(じょうい)派の志士。名は綏猷(やすみち)。堅二郎(けんじろう)と称した。但馬(たじま)国(兵庫県)出石(いずし)郡の医家に生まれ、京都に学んだ。公卿(くぎょう)中山忠能(ただやす)の侍読(じどく)となり、その家臣田中家の養子に迎えられ、河内介に任ぜられた。やがて西日本の尊攘志士らと交際を深め、1862年(文久2)島津久光(ひさみつ)(薩摩藩主の父)の率兵(そっぺい)上京に乗じて尊王の挙兵を画策したが、寺田屋事件で捕らえられ、海路鹿児島へ護送される途中、子の瑳磨介(さまのすけ)とともに殺害された。

[井上勝生]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田中河内介」の意味・わかりやすい解説

田中河内介
たなかかわちのすけ

[生]文化12(1815).但馬
[没]文久2(1862).5.1. 播磨灘
幕末の尊攘派志士。名は綏猷。医者小森正造の次男。儒学を学び,天保 14 (1843) 年中山忠能 (→中山忠能日記 ) の知遇を受け,諸大夫田中近江介の養嗣子となり,河内介に任じられた。急進的な討幕派で攘夷親征に尽力。寺田屋騒動後,薩摩藩に護送される途中,船中で自刃。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中河内介」の解説

田中河内介 たなか-かわちのすけ

1815-1862 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。
文化12年1月生まれ。但馬(たじま)(兵庫県)の医家の出身。京都で中山忠能(ただやす)につかえ,同家の諸大夫田中綏長(やすなが)の養子となる。文久2年寺田屋事件で逮捕され,船で鹿児島へ護送される途中,同年5月1日長男瑳磨介(さまのすけ)とともに殺害された。48歳。本姓は小森。名は綏猷(やすみち)。字(あざな)は士徳。号は恭堂,臥竜。

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