上田村(読み)うえだむら

日本歴史地名大系 「上田村」の解説

上田村
うえだむら

[現在地名]盛岡市上田一―四丁目・西下台町にししただいちよう館向町たてむかいちよう高松たかまつ一―四丁目・北山きたやま一―二丁目・みどりおか一―四丁目・東緑ひがしみどりおか黒石野くろいしの一―三丁目・東黒石野ひがしくろいしの一―三丁目・岩脇町いわわきちよう箱清水はこしみず一―二丁目・上田堤うえだつつみ一―二丁目・松園まつぞの一―三丁目・東松園ひがしまつぞの一―四丁目・西松園にしまつぞの一―四丁目・北松園きたまつぞの一―四丁目・小鳥沢ことりざわ一―二丁目・上田など

盛岡城下の北西部、湾曲して南流する北上川東岸に位置する。東は三割みつわり村・山岸やまぎし村に接し、当村南端の東部は北山の寺院街の一画を形成する。城下北西部から上田組うえだくみ町が村内を北北西に延び、その先は奥州街道に続き、北上川左岸に沿って村内を北上する。正平(一三四六―七〇)初年のものとされる北畠顕信書状(遠野南部文書)に上田城とみえ、南部政長(八戸南部氏)に対して北朝方との和議が成立したため、同城包囲の撤収が報じられている。上田城は北朝方の拠点の一つで、その所在地は当地に比定され、南朝方の撤収は正平六年のことと推測されている(盛岡市史)

寛永一八年(一六四一)の検地高五九一石余(「検地高目録写」県立図書館蔵)

田村
かみよもぎだむら

[現在地名]平田村上蓬田

阿武隈高地の山間部、現平田村の北東端部に位置し、北は蓬田新田村など、西は下蓬田村、南は永田ながた村・鴇子とうのこ村、東は九生滝くりゆうだき村。中世から近世中頃までは、下蓬田・蓬田新田両村を含めて蓬田あるいは蓬田村といわれ、中世には蓬田氏の蓬田館、江戸時代後期には常陸土浦藩の蓬田陣屋があった。地内をほぼ南北に走る国道四九号の東側字たてまえに蓬田館跡があり、本丸跡や土塁などの遺構が残る。館主は石川一族の蓬田氏で、奥山氏とも称した。文明(一四六九―八七)頃に蓬田秀光が同館を築いたといわれ、字揚土あげつちは築館の際に土を運び上げたことにちなみ、館跡西側の字向舘むかいだては西方の防備を固めるために築かれた館の名にちなむという。現在、蓬田館跡の麓の国道沿いを上槍かみやらい・下槍とよぶが、これは館の防備のために青竹で槍(矢来)を組んだことに由来すると伝える。明応五年(一四九六)と推定される八月四日の石川一家同心状案(八槻文書)では、傘連判に蓬田宗種が名を連ねている。永禄七年(一五六四)から同一二年の間のものと推定される正月七日の岩城親隆書状(上遠野文書)に「抑昨六日、被得大利、小野・蓬田之衆数百人、被打取候之様体」とあるが、これは岩城氏の老臣上遠野常陸介との合戦に敗れたものである。

上田村
うえだむら

[現在地名]羽須美村上田

下口羽しもくちば村の南東に位置し、東を北流する江川対岸は備後国下作木しもさくぎ村・大津おおつ(現広島県作木村)、南は安芸国川根かわね(現同県高宮町)。村の中央西寄りを出羽いずわ川の支流長田ながた川が北流する。山地で平地は少なく、砂鉄採取跡地の新開と改良と考えられる棚田の谷間に小集落を構成している。川根村との境近くの長田に槙尾まきお城跡がある。比高九〇メートル、四方に延びる急峻な尾根に空堀を設け、西側背後の後城うしろじようとよぶ境は大きく堀切され、小規模であるが堅固な構えをもつ。文明八年(一四七六)九月一五日の高橋氏が益田氏と結んだ契状(益田家什書)に被官一六人が傘連判を加えているが、そのなかにみえる長田備中守光季の拠城といわれる。享禄二年(一五二九)毛利元就は高橋氏を藤根ふじね城で滅亡させ、のち家臣の桂元澄を槙尾城に配し、児玉内蔵助を代官としたといわれることから児玉こだま城とも称される。

上田村
かみだむら

[現在地名]壬生町上田

小林こばやし村の北、姿すがた川右岸の台地上に立地し、中央部をくろ川支流川が南流する。東は安塚やすづか村、西は中泉なかいずみ村。縄文時代中・後期の遺跡として、姿川右岸段丘上に坂下さかした遺跡、江川の一支流に臨む舌状台地上に上田遺跡がある。弥生時代の遺跡として大力だいりき遺跡・上田遺跡がある。朝比奈あさひなにある浅間塚せんげんづか古墳は円墳で、直刀・短甲・馬具・鉄鏃・鉄斧・円筒埴輪三個体が出土したというが、現存するのは円筒埴輪三個体だけである。浅間塚古墳の北東約三〇〇メートルの所から埴輪棺も出土している。南北朝期のものと推定される五輪塔があり、その下から骨壺が出土した(以上「壬生町史」)。村内に上田城があり、土塁・空堀の一部が残る。

上田村
うわだむら

[現在地名]押水町上田

大坪おおつぼ川と宝達ほうだつ川に挟まれた扇状地上に位置し、南は中野なかの村・三日町みつかまち村。村名は延暦年間(七八二―八〇六)坂上田村麻呂が蝦夷平定の帰途、この地に滞在したのにちなむと伝える(羽咋郡誌)。永禄一二年(一五六九)六月九日の温井景隆書状案(光専寺文書)によると、景隆は本願寺顕如への仲介を依頼した伊与に対し、本意達成のときは「押水上田村之内」散田二〇俵を与えると約束している。

正保郷帳によると高一千四八石余と付近では最も多く、田方四八町六反余・畑方二一町二反余、免四ツ一歩五厘で、ほかに新田七八六石余(免二ツ七歩三厘)があった。この新田がのちに上田出うわだで村となる。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると高一千七三石のうち七七六石余が免五ツ八歩、二九六石余が免六ツ八歩と高率で、新田高一七石(免五ツ八歩)、小物成は山役二五四匁・苦竹役四四匁、鳥役一〇目(出来)であった(三箇国高物成帳)

上田村
かみだむら

[現在地名]小国町上田

田の原たのはる川と蔵園くらぞの川に挟まれて集落がある。元徳二年(一三三〇)二月二三日の阿蘇社造営料木注文写(阿蘇家文書)によると、料木二本を、正平七年(一三五二)二月日の阿蘇社上葺等次第(同文書)では二宮の上葺のうち裏面を負担、同一八年閏一月二五日の阿蘇社造営料木納帳(同文書)ではこみけた一支を負担している。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同文書)に「上田之分」とあり、近世の小村の仁瀬にせ西原にしはる塩井川しおいがわ・室・楢木などがみえ、仁瀬は収納使の宿泊地であるため、初穂米の負担は免除された。永正一四年(一五一七)五月二日の阿蘇惟豊宛行状(北里文書)で当村は北里次郎左衛門尉(亮義か)に宛行われている。

上田村
うえだむら

[現在地名]社町上田

加古川左岸の平野部に位置し、北は村。天文一九年(一五五〇)二月二五日の光木家次下地寄進状(清水寺文書)の端裏書に「福田之内上田村より、光木孫右衛門」とあり、このとき清水きよみず寺に「堂之芝の西」の三〇代(分米三斗)が寄進された。福田ふくだとは山城石清水いわしみず八幡宮領福田保をさしており、上田村は福田保内であったと思われる。当時の大芋おおいも神社の神主石井氏は石清水八幡宮から来住したとの伝承も傍証となる(加東郡誌)。なお永禄一〇年(一五六七)四月二四日の大芋神社社殿上葺本願人は服部出雲守であった(「社殿納歴代写」同書)。明応八年(一四九九)正月一七日の浦上則宗・芦田友興連署奉書(栗山文書)によると、「服部小三郎知行分賀東郡内所々」を没収して御料所とすべきことが依藤猪五郎に命じられており、文亀二年(一五〇二)一一月二八日には室町幕府が福田保内三名ならびに時元ときもと名・二木名などに対する守護被官人服部小三郎の違乱を停止している(「室町幕府奉行人連署奉書」石清水文書)

上田村
うえだむら

[現在地名]松原市上田一―八丁目・阿保あお一丁目・同四丁目・田井城たいじよう一丁目・高見の里たかみのさと一丁目・同四丁目・まつおか一丁目・新堂しんどう二丁目・柴垣しばがき一―二丁目・西大塚にしおおつか一―二丁目

近世に松原村を構成した一村で、松原村の北部に位置し、道幅一間一尺(田中啓二家文書)の長尾街道を境として阿保村に接していた。昭和五七年(一九八二)上田二丁目で、長尾街道の中心から約一〇メートル南側を並行に走る側溝が発見された。幅約一・七メートル、深さ約三〇センチで、古代大津道の南の側溝と考えられている。北側は未発掘のため不明であるが、道幅一八メートルの難波大道と直交しておかしくない大道であったと推定される。

上田村
かみたむら

[現在地名]南国市田村たむら

物部ものべ村の西にあり、村内を南の前浜まえのはま村と山田やまだ(現香美郡土佐山田町)を結ぶ往還が通る。香美郡に属し、「土佐州郡志」は「東西十八町南北十八町、(中略)其土蒼白」と記し、「本村・王子・上嶋・永田・藤之宮惣曰上田村」と記す。

村域内からは西見当にしけんとう遺跡をはじめ多くの弥生時代の遺跡が発見され、条里制の遺構も残る。「和名抄」所載の香美郡田村郷は、当村および南隣下田村・前浜村を中心とする地に比定される。田村の地名は「性霊集」に「田村庄」とみえ、同庄は天長三年(八二六)山城神護寺に伝法料として寄進されている。当地は田村庄のうち田村上庄(上田村庄)の地であったと考えられる。康暦二年(一三八〇)頃、守護代細川頼益が当地に城館を築き、当村域はこの城館を中心に発展、城館に接して市町もあった。

上田村
うえだむら

[現在地名]宇佐市上田

駅館やつかん川中流域の両岸に展開する。宇佐台地の一部を占める東岸部は東上田の通称があり、東は宇佐村、北は川部かわべ村。西岸は沖積低地で、南は法鏡寺ほうきようじ村、北は芝原しばはら村・畑田はたけだ村。康永四年(一三四五)三月一〇日の宇佐宮神領買得田畠等注文(北艮蔵文書)に「うへたのきよなかのはなち、はなミつりやう」とみえる。佐田鎮綱手負注文(佐田文書)によると天正八年(一五八〇)宇佐郡において反大友氏の諸士が挙兵した際、同年六月二二日「宇佐郡上田表」において佐田鎮綱の親類家中が防戦、うち佐田宮内丞らが傷を負っている。天正八、九年頃のものと思われる一二月八日の田原紹忍書状(広崎文書)で田原紹忍(親賢)は「上田村之者共」が宇佐宮との間で自由に山野を往返することに対して見付け次第討果すことを広崎兵庫入道ほか寄合中に命じ、もし彼らが緩怠した場合には「三カ村衆」にそのことを申付けると付言している。

上田村
うえだむら

[現在地名]静岡市井川いかわ

大井川の最上流部に位置し、右岸の河岸段丘上に集落がある。現在、地内に井川ダムが築造されており、上流はダム湖の井川湖となっている。中世は井河いかわのうちに含まれていた。貞治二年(一三六三)一〇月日の石塔範家のものとみられる書下(伊東文書)に「安部山内上田村地頭郷司職」とあるが、当地が安部山あべやまのうちに比定しがたいことなどから、同書下には検討の余地がある。天正四年(一五七六)二月二三日、武田勝頼は御宿友綱に上田の四〇貫七五〇文の地などの代りに久足きゆうそく(現山梨県勝沼町)を与えた(「武田勝頼判物」御宿文書)

上田村
うえだむら

[現在地名]鈴鹿市上田町

石薬師いしやくし宿の南西、鈴鹿川の支流がま川と椎山しいやま川に挟まれた丘陵上の村で、上田・やまはなやまはらの三集落からなる。戦国時代、山ノ原の丘陵の突端(火ノ坪)に、神戸信孝の臣古川九兵衛が上田砦を築いて拠った。古老伝説に島津勢が関ヶ原での敗北の後、ここに三日流寓という(三国地志)。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「上田村」一〇九五・五石として現れる。関ヶ原の戦直後、幕府領で四日市代官の支配下であったが、寛永一三年(一六三六)そのうちの半分が亀山藩本多氏領となった。

上田村
うえだむら

[現在地名]岩国市大字上田

保木ほうき川の東、寺山てらやま村の西にある山村で、西は土生はぶ村。寛永二〇年(一六四三)河内こうち郷を分割してできた村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」には「上ケ田村」とある。

村名の由来は「玖珂郡志」に「上田民部実正居住、其末藤兵衛」と記すが、古くは「あげた」と読んだところから、隣村と併せ「はぶをあげた」と響くのを嫌い、元文四年(一七三九)に「うえだ」に改称したとも記す。

上田村
かみだむら

[現在地名]市島町上田市島

西端を竹田たけだ川が流れ、南は鴨庄かものしよう川を隔てて梶原かじわら村。「丹波志」は上田を本村、天神てんじん稲葉いなば・ウシ縄牛を枝村とする。竹田川の対岸を市嶋(現市島)と称し、南を上田村、北を上垣うえがい村・岡本おかもと村に接する三村の境にあたる。丹後への道が通る。承保元年(一〇七四)の白河天皇の大嘗会の主基国風俗歌として大江匡房が詠んだ歌に「ちはやぶるかみたのさとのいねなればつき日とともにひさしかるべし」(江帥集)がある。

上田村
うえだむら

[現在地名]加茂川町上田西うえだにし上田東うえだひがし

標高三〇〇―四〇〇メートルの高原上にあり、北は三谷みたに村、東は円城えんじよう村。寛永備前国絵図に村名がみえ、高九〇三石余。正保郷帳は枝村として油浮村・南上田村を載せる。「備陽記」では枝村を含めた田畠一〇四町五反余、家数一七二・人数九〇七。その後東西両分に分れ文化年間の「岡山藩領手鑑」によると上田村西分の直高七三四石余、蔵入と家臣九名の給地。二口高五四二石余、残高四二九石余、田方二四町九反余・三〇六石余、畑方二二町四反余・一二三石余、開方一六石余・二町六反余、家数一〇一、うち社方一、人数三八五、うち社方五。

田村
かみくしだむら

[現在地名]上月町櫛田

円光寺えんこうじ村・久崎くざき村の東、千種ちくさ川中流域の沖積地と後背山地に立地する。千種川を挟み東に滝谷たきだに、西に平谷ひらだにの二集落がある。文明一三年(一四八一)九月日の上月満吉所々知行分目録案(上月文書)に、不知行地で訴訟分として櫛田庄とみえる。江戸時代には当村を含め宇野うの庄の広域名称が使われた(文化一二年「三日月藩領田畑明細帳」長田家文書)。慶長国絵図に二ヵ所に分けて串田村とみえる。江戸時代の領主の変遷は慶安二年(一六四九)に幕府領となるまでは上月村に、以後は仁位にい村に同じ。

上田村
うわだむら

[現在地名]氷見市上田

上庄かみしよう川支流上田川の谷間にあり、三方を丘陵に囲まれ、中央に帯状小平地がある。東はいずみ村、北対岸はなか村。東に竹里ちくり山がある。北西の滝尾たきお(早借地内)密教寺院があり、当地にその参詣路があったため大門だいもんの地名が残るという。元和二年(一六一六)当村百姓に氷見下庄野に新村を開くことが許可されている(「新開許可状」鎌仲家文書)。同五年当村などが氷見南新みなみしん町へ茣蓙・縁取・畳表などを売ることが勝手とされた(売買勝手申渡書「産物方御用留」加越能文庫)

田村
かみひえだむら

[現在地名]行橋市上稗田

下稗田村の南西に位置し、西は上田うえだ(現勝山町)、南は西谷にしたに村。中央部を長峡ながお川が東流する。同川より北は丘陵地、南は平野部。下稗田とともに中世の稗田庄の遺称地。もとは稗田村一村であったが、江戸時代初期には上・下二村に分れた(京都郡誌)。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高八三九石余、家数三七・人数六三(うち百姓八・名子四)、牛七・馬二。正保国絵図では高五九〇石余。

上田村
うわだむら

[現在地名]喜多方市岩月町いわつきまち宮津みやつ

稲田いなだ村の北西にあり、西はいな村、南は下台しもだい村、北東は中田付なかたづき村。小田付組に属し、西村にしむら下村しもむら滝川たきがわの端村がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に上田とみえ、高七八〇石余。寛文五年(一六六五)の「小田付組土地帳」では高八〇三石余、免四ツ七分八厘六毛余、反別は田方四八町八反余・畑方一一町四反余、本村は家数一九(竈数二二)、男六〇・女四六、馬一〇・牛一、滝川は家数八(竈数八)、男二三・女一九、馬五、下村は家数一一(竈数一二)、男二〇・女二三、馬五。西村の名はまだみえない。綿役金一両二分・同銀五匁四分三厘、山役銀四分・役漆木三五七本二分などを負担していた。

上田村
うえだむら

[現在地名]木曾福島町新開しんかい 上田

木曾福島町の北部を占め、木曾川沿いに新町あらまち出尻いでじり上野うえの・上田・栗本くりもとこまヶ岳山麓に大原おおばら、木曾川右岸の熊沢くまざわ川沿いに奥深く熊沢、福島に隣接するくろ川の下流に黒川渡くろがわどくいばらなどの集落が散在する。黒川の支流幸沢こうさわ川の奥にも幸沢という小さな集落がある。

栗本の此尻このじりには、中原兼遠の屋敷跡とよぶ館跡がある(新開村誌)。天正一〇年(一五八二)松本の小笠原氏が木曾へ侵攻した時、宝永三年(一七〇六)の「木曾考」にはこれを迎え討った木曾義昌の家臣として上田縫殿・上田庄左衛門の名をあげている。

上田村
うえだむら

[現在地名]近江八幡市上田町

西本郷にしほんごう村のほぼ南にあり、東は野田のだ村など。南部を中山道が通る。正長元年(一四二八)九月一六日の畠山満家下知状案(蒲生郡志)には「篠田郷馬淵北方上田事」とみえ、京極持清に宛行われている。永享八年(一四三六)一〇月二日の篠田神社棟札によると、同社拝殿の再建願主は上田庄地頭持清、また「当庄村人数八十七人」とみえる。元和元年(一六一五)仁正寺藩領となる。

上田村
うえだむら

[現在地名]中山町住吉すみよし

新市しいち村の西、下市しもいち川の下流右岸に位置する。八橋やばせ郡に属し、拝領高九八石余、本免五ツ四歩。年貢は御来屋みくりや御蔵(現名和町)に納めたが、これは中山郷で当村だけであった(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一四四石余、竈数一二。藪役銀二匁を課されていた(藩史)。文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)では古林一九町四反余、家数一三・人数五三。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)には総竈数一三、うち余業を営む戸数六で、内訳は木挽二、荒物店・綿打・石工・炭焼各一。寛延三年(一七五〇)当時の庄屋は平右衛門であった(在方諸事控)

上田村
うえだむら

[現在地名]三次市上田町

石原いしはら村の南東、三谿みたに郡最大の山塊岡田おかだ(六三九メートル)の西麓に位置する村で、道の通ずる三若みわか村・石原村、長田ながた(現双三郡三良坂町)世羅せら下津田しもつた(現世羅西町)のいずれからも長い坂道を登った所にあり、谷々に民家が散在する。ただし美波羅みはら川沿岸に飛郷いとがある。江戸時代を通じて広島藩領で、元和五年(一六一九)の備後国知行帳に村高二三七・二四七石を記す。「芸藩通志」記載の村高は一一三石余増えて三五〇石七斗(畝高六八町一畝余)で、戸数八二・人口四二〇、牛七一・馬二九とあり、「水乏しく旱に苦しむ」と記している。

上田村
かみだむら

[現在地名]日野市上田など

川辺堀之内かわべほりのうち村の東にあり、村の南をあさ川が流れる。天文年間(一五三二―五五)頃とみられる高幡高麗一族屋敷・下地等絵図(史籍雑纂)に、浅川北岸で別府べつぷ宮の西、立川たちかわ方「谷之村」の南東に「町屋在家」とある。町屋まちやは村内の小名である。天正一四年(一五八六)三月九日、八王子城の城主北条氏照は平賀豊後守・福島右近・竹間加賀入道に対し、日野惣郷ならびに立川領東光とうこう寺境より谷・町屋までの地域において竹木伐採を禁じている(「北条氏照朱印状」佐藤文書)。寛永一四年(一六三七)検地が行われた(風土記稿)。田園簿に上三田村とみえ、田方六四石余・畑方二五石余、うち一一石余は年々川懸。

上田村
うえだむら

[現在地名]池田町上田

本郷ほんごう村・萩原はぎわら村を挟んで田中たなか村の南東方に位置する。近世前期には上野うえの村と称した。天正一七年(一五八九)一一月二一日付豊臣秀吉の美濃国御蔵入目録(内閣文庫蔵)に上野村とみえ、高三四七石余。慶長二年(一五九七)の池田野山年貢割帳(阿子田文書)によれば、入会の大津谷おおつだに山への立入人馬数は八人・一四匹となっている。慶長郷帳に上野村とみえ、高三五二石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領。正保郷帳でも上野村とあり、尾張藩領で、田二二九石余・畑一四五石余、山年貢・野年貢・山札米合せて五石余。

上田村
うえだむら

[現在地名]白川町三川みかわ 上田

飛騨川支流あか川右岸の高原に位置。北は和泉いずみ村、南は犬地いぬじ村、西は小原おばら村。和泉村から当村を通り、犬地村川原小屋かわらごやを越して黒川くろかわしも新田に抜ける道は重要であった。慶長一五年(一六一〇)の当村の石盛定(小栗文書)が残る。慶長郷帳では高一一九石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では遠山友政(苗木藩)領で、以後幕末まで同じ。正保郷帳では田方七五石余・畑方四二石余、ほか畑方新開六斗余。

上田村
うえだむら

[現在地名]河内長野市上田町

天見あまみ谷の北部にある。天見川が南から北へ流れ、東と西は山地。北は喜多きた村、東は三日市みつかいち村。高野街道が通る。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高一六四石余、旗本甲斐庄正房領、ほかに山年貢高六斗余。幕末まで同氏領で、元文二年(一七三七)の河内国高帳では一九七石余(うち一〇石余は新田)。以降大きな高の変化はない。天保一四年(一八四三)の村明細帳(竹鼻家文書)によると、三日市宿へ日々人足八人・馬八匹を定助郷として勤めた。田方には稲・綿・煙草、畑方には芋・瓜・大豆・小豆など、裏作は麦・菜種。

上田村
かみだむら

[現在地名]東村上田

田部井ためがい村の西に位置し、北は国定くにさだ村、西は上植木かみうえき(現伊勢崎市)。元禄郷帳では高一〇〇石、幕府領。近世後期の御改革組合村高帳でも同高、同領、家数一七。明治一〇年(一八七七)頃の家数二四(うち社一)・人数一〇六、牡馬七、荷車三。生業は農・桑業がほとんどで、うち商業六戸。繭一九石余を産した(郡村誌)。字六道ろくどうには輝石安山岩製六角柱の道標が二基ある。

上田村
かみだむら

[現在地名]明智町大田おおた 上田

西は大栗おおぐり村、東は明知あけち村に接し、中馬ちゆうま街道の通る山中の小村。慶長郷帳に村名がみえ、高五六石余とある。正保郷帳では田方四七石余・畑方九石余。文政三年(一八二〇)の家数一九・人数九一(「村歳代日記帳」佐々木文書)

上田村
うえだむら

[現在地名]勝山町上田

上久保かみくぼ村・中久保村下久保村の北に位置し、長峡ながお川によって形成された小平野に立地する。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高五二七石余、家数四三・人数五九(うち百姓七・名子四)、牛一一・馬二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報