田郡(読み)まんだぐん

日本歴史地名大系 「田郡」の解説

田郡
まんだぐん

河内国北部に位置した郡。「和名抄」にみえ、訓は東急本国郡部に「万牟多」、「拾芥抄」に「マウタ」(左注は「茨」に「マム」と付す)とあるが、のち転訛して「マッタ」「マンダ」といわれるようになり、近代の郡名は「マンダ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。東は交野かたの郡、南は讃良さらら若江郡、西は摂津国東成ひがしなり郡、北は淀川を隔てて摂津国島上しまかみ島下しましも郡に接する。郡の東北部における交野郡との境界付近は枚方ひらかた丘陵とよばれる五〇メートル前後の標高を示す丘陵であるが、他のすべては淀川が形成した低湿な沖積地である。そのなかを枚方丘陵から流下する寝屋川と、それに併走するふる川がともに南流する。現在では郡域は枚方市の南西部、寝屋川市の西半、守口もりぐち市・門真かどま市の全域、大東だいとう市の西部、大阪市鶴見区の東部にあたる。

〔古代〕

郡名の初見は「日本書紀」宣化天皇元年条で「河内国の茨田郡の屯倉」とあるが、この時期は国郡制以前の段階であるから書紀編纂時の修飾である。したがって霊亀二年(七一六)以前の編纂と推定される「播磨国風土記」が最も早く、播磨国揖保郡枚方里の項目において「河内国茨田郡の枚方里の漢人きたりて」という地名起源説話を記す。しかし茨田の地名は「日本書紀」「古事記」に散見する。まず「日本書紀」仁徳天皇一一年条に北の河(淀川)の水害を防ぐため新羅人を使役して茨田堤を築き、その二年後に茨田屯倉を設けたと記す。「古事記」仁徳天皇段では「秦人を役だちて茨田堤及び茨田三宅を作る」とある。この茨田連は「古事記」神武天皇段と「日本書紀」継体天皇元年・天武天皇一三年の両条にもあり、継体天皇の娘に茨田皇女(茨田郎女)がある。また「日本書紀」皇極天皇二年の条には茨田池が記されている。こうした記紀にみえる記事は、沖積平野の形成が進行中の段階にある河内の平野部において山城盆地から山崎やまさき男山おとこやま間の狭隘部を通って南流する淀川が、南から北へ突出する枚方丘陵の先端にぶつかり、ここで流向を南西方向に転換するため分派河川をつくり、また茨田郡の地において広い水域をもつ湖沼(地形学上は河内湖とよばれている)が存在したこと、さらにこうした地形環境のなかで大規模な治水事業による土地開発が進展していたことを示している。七世紀から八世紀にかけての淀川は現在の寝屋川と古川のコースをとる分流があって、この湖沼に流入していたと考えられる。

茨田郡の成立過程は明らかではないが、交野三宅みやけ(和名抄)が茨田屯倉に関係するとみなすことができるとすれば、七世紀中期の茨田郡(茨田評)は交野郡地方をも含めて編成され、大宝令施行時に交野郡を分置したのではないかと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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