茨田堤(読み)まんだのつつみ

百科事典マイペディア 「茨田堤」の意味・わかりやすい解説

茨田堤【まんだのつつみ】

仁徳天皇の時,淀川水害を防ぐために造られたという堤。《日本書紀仁徳天皇11年10月条に築造記事があり,難工事のため〈人身供犠〉を行ったとある。《古事記》仁徳天皇段には築造と同時に茨田屯倉(まんだのみやけ)を設定したと記される。奈良時代に行基(ぎょうき)によって〈茨田堤樋〉が造られており,《続日本紀》に決壊記事(天平勝宝2年5月24日条,宝亀3年8月条)や修理記事(宝亀1年7月22日条)がみえる。江戸時代まで現大阪府寝屋川市枚方(ひらかた)市に堤跡がみられたと伝え,現在も門真(かどま)市の堤根(つつみね)神社境内に堤の一部(約100m)が残る。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「茨田堤」の意味・わかりやすい解説

茨田堤
まんだのつつみ

淀(よど)川の水害を防ぎ、河内(かわち)平野低湿地の開拓を進めるためにつくられた古代堤防。大阪府門真(かどま)市堤根神社付近に現存する遺構が府の史跡に指定されているが、それは近世古川の堤防の跡である。しかし、この付近一帯の宮野遺跡の一部が発掘調査された結果、現地表下1.2メートルに、幅15メートル程度の古い堤防遺構が検出された。『日本書紀』仁徳(にんとく)紀にみえる茨田堤と推定され、5世紀末ごろの須恵器(すえき)が出土している。

[石部正志]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「茨田堤」の解説

茨田堤
まんだのつつみ

「日本書紀」仁徳11年条に北河(現,淀川)の水害を防ぐために築かせたとある堤。河内国茨田郡の豪族茨田連衫子(ころものこ)が造成に従事した。「古事記」には秦人を使役したとある。あわせて茨田屯倉(みやけ)がおかれた。大阪府枚方市伊加賀から寝屋川市池田にかけ痕跡が残るとの説もある。「続日本紀」には,750年(天平勝宝2)・770年(宝亀元)・772年と,たびたび決壊・修復した記事がみえる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「茨田堤」の意味・わかりやすい解説

茨田堤
まんだのつつみ

古代,河内国茨田郡に築いた堤防。現在の大阪府枚方市から寝屋川市にかけての淀川東岸の地一帯にあたる。築堤についての所伝古く,すでに『古事記』『日本書紀』仁徳条にあり,また奈良時代以後,決壊した堤防の修復がしばしば行われた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「茨田堤」の解説

茨田堤
まんだのつつみ

記紀の記事にみえ,仁徳天皇の頃,淀川の氾濫を防ぐため,秦氏一族に築かせた堤防という
その後平安初期にかけ,たびたび決壊したので修理を重ねた。大阪府枚方市から大阪市の野田に至る淀川左岸にあったという。

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世界大百科事典(旧版)内の茨田堤の言及

【堤防】より


[堤防の種類と発達]
 堤防の呼び方には,雁堤(雁行堤)などのように形状に由来するもの,荒川の吉見堤や向島堤のように地名に由来するもの,信玄堤などのように施工者名を冠したものがある。日本で初めて記録に現れる堤防は淀川筋の茨田堤(まんだのつつみ)で,《日本書紀》によれば,仁徳天皇の11年,枚方付近の堤防を修築し,これより下流の淀川左岸一帯のはんらんを防止したとされている。昔は川に接する人家や畑の周囲に土を盛って洪水の浸入を防いだが(畑囲い堤という),時代が下がると,川の下流部では大きな集落を単位として強固な堤防でその周囲を巡らし,洪水を防ぐようになった。…

【茨田池】より

…東方の生駒山系北部に発する諸河川を水源としたとみられる。北西を流れる淀川がはんらんすると淀川左岸の地を浸すことになるので,これを防ぐため茨田堤が築かれたが,この築造に関する説話が《日本書紀》仁徳紀にみえる。これは大和朝廷が河内平野北部の開発に積極的であったことを物語る。…

※「茨田堤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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