由良村(読み)ゆらむら

日本歴史地名大系 「由良村」の解説

由良村
ゆらむら

[現在地名]大栄町由良宿ゆらしゆく

由良川河口付近に位置し、伯耆街道が通る。北は日本海に面し、東は由良川を挟んで西園にしその村に対する。西は妻波つまなみ村、南は別所べつしよ村。「和名抄」東急本に載る八橋やばせ由良郷、応永二〇年(一四一三)頃と推定される長講堂領目録写(東山文庫記録)にみえる由良郷の遺称地とされ、戦国時代には八橋の杉原盛重の家臣木梨子左馬介の居城があったと伝え、天正年間(一五七三―九二)には吉川元春が陣を布いたという(「伯耆民談記」など)。もとは南部の丘陵地の裾野に集落があったが、江戸時代初期、大前の屋号で知られる竹歳家の祖先が海岸寄りの郷原ごうばらとよばれた砂原の揚屋敷あげやしきに隠居所を構えたのを機に、現在に至る集落が形成されはじめたという(竹歳家文書)。享保四年(一七一九)に藩蔵が設置されて以降、北に由良浦を擁する伯耆街道の宿場としてしだいに在町化した。

正保国絵図に油良村とみえる。拝領高は三八九石余、本免は四ツ七分。藪役銀一三匁を課されていた(藩史)。享保一九年の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高五八〇石余、竈数九〇余。明和四年(一七六七)の家数は一四四で、天保一一年(一八四〇)の家数は二四〇(うち持家一九五)であった(大栄町誌)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高七二九石余、竈数二四七。藩蔵が設置されたのを機に伯耆街道が改修され蔵の正面を通るようになった。本町通と称されたこの通りを基準にして東西南北に二台の荷車の往来可能な道路が整備される一方、近在からの移住奨励策がとられ、宅地や寺院・墓地の区画が決められたという。


由良村
ゆらむら

[現在地名]宮津市字由良

由良川河口西岸にあたり、若狭湾に面する。背に由良ヶ岳(六四〇メートル)を負い、前に白砂の海岸をひかえる景勝の地。

近世には加佐郡に属し、慶長検地郷村帳に高六五六・九六石「由良村」とみえる。また「由良村之内石浦村」とあり南隣の石浦いしうら村をも含んでいたが、元和一〇年(一六二四)分離したといわれ(井上金次郎家所蔵文書)、享保三年(一七一八)の領中郷村高付に由良村六三二・六三五石、石浦村一〇〇石と記される。田辺藩領。

耕地が狭いため塩浜・廻船などに従事する者が多かった。製塩は河口を離れた西部で揚浜製塩が行われたが、瀬戸内の大量生産には対抗できず、ともかく質の良好を誇って明治まで辛うじて続いた。田辺藩の土目録によれば総石高のうち田方は五三六石余、畑方は九六石余、小物成として塩浜年貢五・三一八石、運上のうち塩浜運上銀二貫六四二・二匁、塩一〇三俵、請藪代銀一九八匁があった。


由良村
ゆらむら

[現在地名]鶴岡市由良

油戸あぶらと村の南西にあり、日本海に面する。西に突出する白山島おしまの南北両側に湾があり、その沿岸に集落がある。西部のとまりに由良港がある。地名は、丹後の由良ノ浜から移住開村した人たちが故国にちなみ名付けたとも伝えられる。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高七六〇石余。寛永元年庄内高辻帳には油良ゆら村とあり高四九二石余と激減している。正保郷帳では田高四一六石余・畑高四〇石余、芝山がある。弍郡詳記では家数一二四、小名泊りが記される。由良組の中心村で、大肝煎は和田善右衛門が勤めた(「古来大肝煎勤方覚帳」鶏肋編)


由良村
ゆらむら

[現在地名]太田市由良・藤久良ふじくら新道町しんどうちよう宝町たからまち

沖野おきの村の東、かな山西南の平坦地に南北に広がる低台地の中央に位置し、東境をひじり川が、西境を田島たじま堀が南流。東は藤阿久ふじあく村、南は細谷ほそや村、北は新野にいの村。中央を日光例幣使街道がほぼ東西に通る。新田につた庄由良郷の郷域であった。

寛文郷帳では田方九八七石余・畑方八一三石余、幕府領・旗本小坂領などの四給。旗本領分には、松林・茅野有などと注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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