日本歴史地名大系 「由良村」の解説
由良村
ゆらむら
由良川河口付近に位置し、伯耆街道が通る。北は日本海に面し、東は由良川を挟んで
正保国絵図に油良村とみえる。拝領高は三八九石余、本免は四ツ七分。藪役銀一三匁を課されていた(藩史)。享保一九年の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高五八〇石余、竈数九〇余。明和四年(一七六七)の家数は一四四で、天保一一年(一八四〇)の家数は二四〇(うち持家一九五)であった(大栄町誌)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高七二九石余、竈数二四七。藩蔵が設置されたのを機に伯耆街道が改修され蔵の正面を通るようになった。本町通と称されたこの通りを基準にして東西南北に二台の荷車の往来可能な道路が整備される一方、近在からの移住奨励策がとられ、宅地や寺院・墓地の区画が決められたという。
由良村
ゆらむら
- 京都府:宮津市
- 由良村
由良川河口西岸にあたり、若狭湾に面する。背に由良ヶ岳(六四〇メートル)を負い、前に白砂の海岸をひかえる景勝の地。
近世には加佐郡に属し、慶長検地郷村帳に高六五六・九六石「由良村」とみえる。また「由良村之内石浦村」とあり南隣の
耕地が狭いため塩浜・廻船などに従事する者が多かった。製塩は河口を離れた西部で揚浜製塩が行われたが、瀬戸内の大量生産には対抗できず、ともかく質の良好を誇って明治まで辛うじて続いた。田辺藩の土目録によれば総石高のうち田方は五三六石余、畑方は九六石余、小物成として塩浜年貢五・三一八石、運上のうち塩浜運上銀二貫六四二・二匁、塩一〇三俵、請藪代銀一九八匁があった。
由良村
ゆらむら
由良村
ゆらむら
- 群馬県:太田市
- 由良村
寛文郷帳では田方九八七石余・畑方八一三石余、幕府領・旗本小坂領などの四給。旗本領分には、松林・茅野有などと注記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報