由良郷(読み)ゆらごう

日本歴史地名大系 「由良郷」の解説

由良郷
ゆらごう

新田につた庄内中世郷で、由良本郷・脇屋わきや(谷)村・「奥村」・細谷ほそや村・別所べつしよ村の諸村から構成される。嘉応二年(一一七〇)新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「由良の郷 田八町七反廿たい 畠三町五反十たい 在家一三う」とみえる。鎌倉時代の史料が伝わらないことから、この地が早期に滅亡した新田本宗家領であったと推測される。「上州新田雑記」によると囚人逃失罪・自由出家罪など北条氏の政治的圧力で失脚した新田政義が「由良郷別墅」に蟄居させられたという。新田義貞の挙兵・滅亡の後、政義以来の本拠地由良郷は同族岩松氏に伝えられた。


由良郷
ゆらごう

由羅郷とも記した。郷域は現由良宿ゆらしゆく周辺地域に比定され、「和名抄」東急本に記載されている八橋やばせ郡由良郷の系譜を引くものと考えられる。もとは久永くえ御厨のうちに属したが、応永二〇年(一四一三)頃と推定される長講堂領目録写(東山文庫記録)に「久永御厨 此内由良郷相国寺」とみえ、この頃には京都相国しようこく寺領であった。寛正四年(一四六三)一二月一八日、相国寺は伯耆守護山名教之が由良郷に五〇〇貫文を賦課したことを訴え、幕府が違乱停止を命じている。しかし教之は翌年三月二日にも当郷から「国懇徳銭四百石」を徴収しており、このときも同寺の訴えにより幕府が返付を命じている。


由良郷
ゆらごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、ユラであろう。藤原宮跡出土木簡に「知夫利郡由良里」、平城宮跡出土木簡に「智夫郡由良郷壬生部」とある。平城宮二条大路跡出土木簡によれば、天平六年(七三四)当郷の阿曇部赤人が調として海藻六斤を納入しており、別の木簡では由良郷津守部足人の紫菜二斤の負担が知られる。「大日本地名辞書」は知夫里島、「大日本史」「日本地理志料」は西にししま別府べつぷ、「島根県史」は同町浦郷うらごう地区のしやく三度みたべ珍崎ちんざきにそれぞれ比定している。


由良郷
ゆらごう

「和名抄」東急本は「由良」、高山寺本は「由見」と記し、ともに訓を欠く。郷名の由来は、由良の「ら」は浦を意味し「ゆうら」が「ゆら」に転じたともされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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