甲佐神社(読み)こうさじんじや

日本歴史地名大系 「甲佐神社」の解説

甲佐神社
こうさじんじや

[現在地名]甲佐町上揚

上揚かみあげの中央、字宮の上みやのうえにあり、南を緑川が西流する。祭神は八井耳玉命、甲佐明神ともいい、阿蘇大明神健磐龍命の子で速瓶玉命の異母弟であると神系図では位置づけられている。「三韓」出兵の時、天から金の甲を授けられ、神功皇后を助けたので勅号により甲佐宮と称したという(正平一六年八月日「甲佐社牒写」阿蘇家文書)中世は肥後国二宮とされた(承安三年一月一八日「木原顕実寄進状」同文書)。旧郷社。健軍けんぐん(現熊本市)郡浦こうのうら(現宇土郡三角町)とともに阿蘇三末社の一つで、史料上は三社もしくは四社として出る場合が多い(熊本市の→健軍神社。「国誌」によれば、六世紀中頃欽明天皇の時に、甲佐岳(七五三・二メートル)頂上に上宮を、現在地に下宮を祀ったという。また仁寿元年(八五一)九月九日に阿蘇大明神を当地に勧請した。甲佐三宮大明神の一殿は甲佐大明神、二殿は阿蘇大明神、三殿は郡浦神を祀る。

保延三年(一一三七)から六ヵ年間の年貢の収支決算書である阿蘇大宮司宇治惟宣解(阿蘇家文書)に「除甲佐社定」とあり、同年以前に阿蘇社の末社となっていたが、年貢の収納は大宮司に属していないことが知られる。建久六年(一一九五)には従来浮免の神田であった阿蘇・健軍社神田とともに社領が定田化されたが、甲佐社の場合は、その具体的内容が明らかである(「肥後国司庁宣」「肥後国留守所下文案」「甲佐社領立券解案」同文書)。承久三年(一二二一)守富もりどみ(現下益城郡富合町・城南町)地頭木原実澄は、当社神人糺藤次を殺害したとして幕府に訴えられ、和解により実澄の子孫から守富庄の「内検所当米半分」が毎年当社に寄進されることとなった(同年一月一八日「木原実澄契状案」同文書)。宝治二年(一二四八)守富庄下司実村の代官が年貢を当社に隠し置いたと同庄雑掌は訴え、当社地頭代に北条長時から問状が下された(同年三月三日「北条長時問状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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