鎌倉後期の御家人(ごけにん)。五郎兵衛尉(じょう)と称す。肥後(ひご)国豊福庄(とよふくのしょう)竹崎を本貫とし、海東(かいとう)郷を領した。阿蘇大宮司(あそだいぐうじ)家の庶流とする説と、菊池氏の同族とする説とがある。1274年(文永11)元(げん)軍が博多(はかた)湾に襲来した際、少弐景資(しょうにかげすけ)の指揮下で奮戦、戦功をあげた。翌年鎌倉に赴き、恩賞として海東郷地頭(じとう)職を得た。1281年(弘安4)元軍がふたたび博多湾に襲来した際にも敵将の首級をあげた。この活躍は『蒙古襲来絵詞(えことば)』に詳述されている。季長は1293年(正応6)の「置文(おきぶみ)」で海東郷の支配について記している。没年は不明。
[下川晃義]
『中村一紀『蒙古襲来の絵巻・竹崎季長』(『新 熊本の歴史3』所収・1979・熊本日日新聞社)』
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(五味文彦)
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1246~?
鎌倉後期の武士。肥後国の住人。菊池氏一族とする説が有力。本領の益城郡竹崎(現,熊本県宇城市)を失っていた季長は,1274年(文永11)文永の役の際に先駆けの功をあげ,翌年鎌倉に赴き,御恩奉行安達泰盛に直訴して益城郡海東郷(現,熊本県宇城市)の地頭職を得た。81年(弘安4)弘安の役でも博多湾防衛戦や肥前国鷹島海戦で活躍。93年(永仁元)制定の置文によれば,郷社を利用した海東郷支配を展開した。安達泰盛や,地頭職拝領を託宣した肥後国二宮の甲佐大明神の恩に報いるため,「蒙古襲来絵詞」を作成。
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…多くの肥後の武士がこれに参戦した。この合戦に浮沈をかけ首尾よく恩賞(海東郷(現,下益城郡小川町)地頭職)を得て,《蒙古襲来絵詞》を制作させた竹崎季長などは別として,肥後の武士にとって異国警固(生松原の防塁築造と警備)の負担は重く恩賞は乏しく,貨幣経済の発達のもとに困窮を強いられた。これに対し,ひとり北条氏の権力のみが肥大化していった。…
…宇賀岳古墳は装飾古墳として知られる。元寇で戦功をあげたと伝えられる竹崎季長(すえなが)はこの地方を所領した御家人で,その城跡がある。【松橋 公治】。…
※「竹崎季長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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