日本大百科全書(ニッポニカ) 「相模原台地」の意味・わかりやすい解説
相模原台地
さがみはらだいち
神奈川県のほぼ中央部、相模川と境(さかい)川との間に広がる洪積台地。相模原、座間(ざま)、海老名(えびな)、大和(やまと)、綾瀬(あやせ)の5市と寒川(さむかわ)町、それに藤沢、茅ヶ崎(ちがさき)両市の北部にわたっている。地質時代(更新世)に相模川がつくった扇状地が隆起したもので、地形上からは上位・中位・下位の3段の段丘に分けられ、西部には多摩丘陵と同じ高さの丘陵が連なっている。台地の表面は一面に関東ローム層(火山灰土)で覆われるので、風食を受けやすく、冬には霜柱が長期間みられ、地下水位が低く、狭長な侵食谷壁や谷底低地のほかは、地下水位が低く採水が困難で、村の成立や開発が遅れていた。各段丘の崖下(がいか)には湧水(ゆうすい)がみられ、縄文・弥生(やよい)土器の出土地や高塚古墳があり、勝坂遺跡(かっさかいせき)(相模原市)は国指定史跡。
古代には海老名に相模国府が設けられて相模の行政中心地となり、台地面を北東へ横切って東海道がつくられた。浜田の駅家(うまや)が設けられ、また国分寺跡(国指定史跡)も残されている。平安後期には、国司として来任していた相模平氏その他による侵食谷底低地の開拓が行われた。しかし、上位段丘面は水利が悪くて平地林のままに推移し、江戸時代の新田開発も不成功に終わったものが少なくなかった。幕末の開国に伴って生糸輸出の道が開け、貿易港横浜に近い相模原台地は急速に桑園化されて、養蚕地域になった。第二次世界大戦中には、軍の学校、工廠(こうしょう)、病院、飛行場がいくつも設けられたが、戦後まもなく食糧増産のために、相模川河水統制事業が進められ、畑地灌漑(かんがい)による水田化、畑作物増産のモデル地域となった。これと相前後して、現在のJR横浜線、小田急電鉄線、東急電鉄線、相模鉄道線の沿線に住宅地開発と工場進出が相次ぎ、台地の5市は首都圏内でも人口増加率の最高地域となった。北西の田名(たな)地区と南の小出(こいで)地区は、それぞれ大規模有畜(養鶏、養豚)や野菜栽培を中心とする近郊農業の典型地域として知られる。
[浅香幸雄]