白猪屯倉(読み)しらいのみやけ

改訂新版 世界大百科事典 「白猪屯倉」の意味・わかりやすい解説

白猪屯倉 (しらいのみやけ)

《日本書紀》の欽明紀,敏達紀にみえるミヤケ(屯倉)。欽明16年7月壬午条によると,大臣蘇我稲目らを派遣して〈吉備五郡〉に〈白猪屯倉〉を置き,ついで同30年1月辛卯条では,田部(たべ)を置いてから年数がたち,一定年齢に達しても籍からもれて課を免れるものが多いので,王辰爾の甥の胆津を派遣して〈白猪田部丁籍〉を検定せしめた。そこで胆津は〈白猪田部丁者〉を検閲し,詔によって籍を定め〈田戸〉とした。天皇は胆津の定籍の功を嘉して,〈白猪史〉の姓を賜って〈田令(たつかい)〉とし,さきに児島郡に置いた屯倉の〈田令〉の〈葛城山田直瑞子〉の副とした。その後敏達3年10月丙申条では,大臣蘇我馬子を吉備国に派遣して,白猪屯倉と田部を増益し,〈田部名籍〉を白猪史胆津にさずけたという。馬子らは,翌敏達4年2月に京に帰り,屯倉のことを復命している。以上の史料群はいずれも〈白猪史の家記〉から出たとするのが通説である。しかしこれを〈白猪史の家記〉と〈蘇我馬子の復命に由来する史料〉の2系統に分け,両者は同じ歴史的事実を別の側面から記述している場合があると見る考えが出されたが,この2系統論に対する反論も出ている。つぎに,〈田部丁(名)籍〉を作成し〈田戸〉となしたとあることから,このミヤケの管理方式の中に後の律令制的な籍帳・編戸制度の先駆を見る考えも強い。しかし,〈田戸〉の語は,造籍と編戸を密着して考える後世の知識で潤色された用語の可能性が強く,この語から〈田部〉の編戸を主張することはできず,したがって〈田部丁(名)籍〉を戸籍と見ることもできない。また,白猪屯倉の比定地としては,美作国大庭郡,吉備北部山間部,吉備地方主要部などの説が出されている。前2者は,この屯倉を産鉄地域で交通の要衝に置かれ,吉備氏勢力北方から押さえる目的をもったものとする考えで通説的位置を占めるが,これに対してこの屯倉を児島屯倉と同一と考え,その主たる機能を港湾施設・客館施設とする説が出されている。
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百科事典マイペディア 「白猪屯倉」の意味・わかりやすい解説

白猪屯倉【しらいのみやけ】

吉備(きび)国に設置された屯倉。《日本書紀》によれば,欽明朝に〈吉備五郡〉に白猪屯倉が置かれ,さらにその後〈白猪田部丁籍(しらいのたべのよほろのふみた)〉が検定されて〈田戸(たべ)〉とされた。この検定のために派遣された王胆津(おういつ)はこの功により〈白猪史(しらいのふひと)〉の姓(かばね)を与えられ,〈田令(たつかい)〉となった。敏達朝には白猪屯倉と田部が増されて〈田部名籍〉が白猪史胆津に授けられた。白猪屯倉の比定地としては諸説があり,美作国大庭(おおば)郡,吉備北部山間部などが通説であるが,備前国児島(こじま)郡に置かれたとされる児島屯倉と同一のものとみる説もある。

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